5




 夢の続きのようだと、沢田は山本の背中に向かって溜息を吐き出した。湿った冷たい風
が剥き出しの身体を打った。山本はスピードを緩めようとしなかった。沢田は山本の腰に
固くしがみつき、目を瞑っていた。しかし瞼を閉じてもあの表情は消えないのだ。沢田は
獄寺の名を呼んだ。
 朝靄の中を抜け出したとき、アドリア海は既に視界から消えていた。見えるのは枯れた
草地と遠くの丘陵。最初の町では給油をしただけだった。山本は疲れを知らぬかのように
走り続けた。沢田はただ黙ってその腰にしがみついた。もう何も、一言も口をつくものは
なかった。べったりと頬をくっつけた山本の背中が不意に震える。背中越しに聞いたその
声に、沢田はもう返事をしなかった。視界は、ふと暗くなった。
 ベッドの上で目を覚ます。柔らかいシーツに冷たく重いものが横たわっている。それが
自分の身体だと自覚するまで時間がかかった。手足のほとんどに感覚はなかった。眼球さ
え緩慢にうごく。だらしなく前をくつろげた山本がベッドの端に腰掛けている。山本の首
はゆっくりこちらを振り向いて、少し笑った。ゆっくりと上体が傾ぎ、覆い被さってくる。
唇が触れても沢田は目を閉じることもできなかった。麻痺した皮膚を越して山本の厚い手
が沢田を撫ぜる。沢田は服を着ていない。
 そこで初めて沢田は己が左足を見た。ボスにとって必要な身体。十年間耐えてきたリボ
ーンの特訓、海を渡ってからは欠かしたことのない射撃のトレーニングによって筋肉のつ
き始めた身体。しかしそれら努力をもかき消すように左足は、その身体にぶら下がってい
るだけで沢田の全てを損ない、沢田の全てを定義づけていた。膝まで赤黒く染まり腫れ上
がった足。それは今にも爪先から壊死してしまいそうに見えた。
 深い溜息のような吐息が沢田の耳を掠め、意識を引き戻される。山本は目を瞑ってキス
をしていた。その横顔に疲労の陰を認めたとき沢田は、元より抗う気持ちもなかったが、
胸の奥で山本と同じように深い深い息を吐いた。山本が何か囁く。沢田は緩慢に頷く。服
を脱ぎ捨て、山本は沢田の足を持ち上げる。彼はゆっくりと、驚くほどの穏やかさで侵入
する。静かに、静かに、熱もなく沢田の身体は抱きしめられる。
 指が髪を梳いて、頭を引き寄せられる。触れ合わんばかりの距離で、沢田は山本の短い
睫毛が震えているのを見る。沢田の視線から目を伏せたまま、山本が囁く。
「おい…抵抗してくれよ」
 やがて山本は沢田から退く。再び意識を手放した沢田は、山本が熱いタオルで身体を拭
いても目を覚まさない。山本は沢田の横に越し掛け、その裸体を見下ろしてしばらく動か
ない。
 湯の飛沫がタイルを叩く微かな音が響く。湯の柔らかな匂いが鼻をくすぐり、沢田は目
を覚ます。すぐにその音は止んで、ずぶ濡れの山本が姿を現す。シャワールームの照明が
野球で鍛え上げた肉体を逆光の中に浮かび上がらせる。沢田は睫毛の隙間からその姿を覗
き見る。
 床の上に脱ぎ捨てられたズボンを穿き、またゆるゆると山本の動きは止まる。唐突に、
その身体が大ぶりな動きを起こす。ベッドの上の闇を白く閃くものが走り抜ける。白刃は
山本の右手に握られ、微動だにしない。
 小さな電子音が響いた。山本は携帯電話を耳に当てていた。スピーカーから漏れていた
小さな呼び出し音がふつりと消える。
 沢田は無音に耳をすます。山本は無言に耳をすましている。
 どちらから電話を切ったとも知れなかった。完全な無音だった。シャワールームの裸電
球を蛾の羽が撫で、射す光が大きく歪む。白刃は翻り、床に深々と突き刺さる。そして山
本が小さく、小さく、好きだと囁くのを聞く。
 沢田は思う。夢の続きのようだ。泣かない男の髪から、冷めた湯の雫が音を立てて落ち
る。



ロマンティック





 next page