3目覚めた時には、直前まで見ていた夢を忘れていた。毛羽立った毛布が肌を刺す。低い 天井の裸の明かりがオレンジ色の光を落とす。部屋は暗い。がさついた空気は無線機から 流れる無音のノイズで、山本がその前にあぐらをかき、耳を澄ませている。沢田は横にな ったまま掌で顔を拭った。裸の腕に、手首にだけ腕時計。午前六時。沢田はベッドから抜 け出し、柵にかけていたシャツを羽織る。カーテンを少しだけ捲り、街路を見下ろす。空 は夜明けらしく雲も明かりを帯び始めたというのに、路地には一条とて射す光はなかった。 掃き溜めの奥の裏通りはクレヨンで幾重にも塗りこめたかのような黒い闇の中で、何物の 形も見出せなかった。 あの雨の夜をどれだけ走ったか知れない。夜明けを見る頃、沢田は足の感覚も全てなく して崩れ落ちた。気がついたときには、この安宿のベッドの上におり、枕元には山本の困 ったような笑顔があった。足が動かなかった。山本は沢田に飛行機のチケットを二枚差し 出した。沢田はそれを手に取らず、山本の顔を見た。期せずして睨み合いが始まった。何 故、と沢田の目が問う。お前の身体がさ、と山本が答える。大丈夫だ、すぐにでも動くよ うになる。逃げ切れると思ってるのか。思ってなくてついてきたのか。逃げるとかどうで もいい、俺はお前が心配だからついてきたんだぜ、ツナ。親友の言葉には弱いな、でも山 本、俺は今でもお前のボスだよ。ボスの目が山本を目の底まで見つめた。それは決して怒 気を含むものではなかったが、山本はとうとう両手を開いた。 「…そうだな」 山本が言うと、沢田は「そうさ」と頷いた。山本も噛み締めるように頷いた。 「そうだ、これはボスの命令じゃない」 沢田は笑みを浮かべた。この十年で顔面の筋肉に馴染んだボスの鷹揚な笑みの隙間から、 投げ遣りな十三歳の顔が覗いた。搭乗券は窓から外に捨てられた。山本が搭乗券を捨てた 手で沢田の手を取り、接吻した。 暗い路地。昨夜、眠る前まではその虹色の紙を見つけることができた。沢田は左右に目 を走らせる。ゴミ箱の横に蹲っていたホームレスの姿もない。沢田は窓から離れ、足を引 き摺りながらベッドに戻る。と、そこに立てかけられた銀色の杖に気づいた。山本はこち らに背を向けたまま、何も言わない。沢田は杖を手にとり、部屋の中をゆっくり歩いた。 次に普段の歩調と同じように歩いた。大丈夫だ、動く。 無線機は静まりかえっている。彼の手の内からボスが、彼の教え子が姿を消したにも関 わらず、ボンゴレには全くと言っていいほど動きがなかった。平生と変わらぬ様子で運営 されるファミリーは外から見て逆にあまりにも不気味だった。否、何より不気味だったの は、自分のこととなると目の色を変えるあの右腕の男までが声一つ上げず、動きもしない ことだった。リボーンよりも誰よりも怒ると思っていたあの男が。 「ツナ」 小声で山本が呼んだ。無線のヘッドホンを渡される。聞こえる片言は簡単な暗号だ。 「…獄寺くんがミラノを出た」 沢田は山本にヘッドホンを返す。山本は復唱されるそれに耳を傾け、沢田を横目に見上 げた。 熱い吐息のようなものが沢田の口をついた。何よりもこのイタリアの日々を望み、血と 硝煙の匂いのする場所に赴くことを厭わず、自分に従い、自分を敬い、自分を愛する男が、 たった独りでやって来る。苦しかろうが軋もうが続いていた共にある日々を彼は取り戻す ため、自分の目の前に現れるだろう。たゆまず続いていた日常の線路に余計な砂利を撒い たのは自分なのだ。赦しはしまい。 二人は宿を出る。真っ暗な路地を抜けて、タクシーを拾うために二人は立ち止まる。沢 田は杖をついた足下を見詰める。それでも。しかしそれでも獄寺が足下に跪くような気が して、沢田は身震いした。 あんたのどれい |