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 薄曇の空の下を、誰も、何事の変化も持たず、ソレントは岸壁の上、静かに佇んでいる。
北の海岸線に沿って道を上ると、断崖の上の公園に出る。潮の匂いのする冷たい風に髪を
なぶられながら、獄寺は深い青に染まる海岸線を見下ろした。桟橋も、そこに繋がれた船
さえ、十数年前訪れたときと寸分変わっていない気がする。あの頃、坊ちゃまと呼ばれて
いた自分は、今こうして一人、その街を見下ろし、彼のボスはこの空の下から消えた。
 すぐにミラノを離れることは出来なかった。一箇所に幹部が集中してしまうことの危険
性もあった。あの電話を受けてから既に二日経っている。リボーンが指定したのは公園の
中にある古い教会だった。獄寺は踵を返した。木立の向こうに灰色の壁の佇むのが見えた。
北風に背を押されるように、彼はゆっくりと歩き出す。
 シーズン外の公園に人の姿は少ない。それどころか地元の人間さえ見かけない。木立の
影に佇み、ぎらついた目で辺りを見回しているのはボンゴレの者達だ。教会の前に出ても、
彼を出迎えたのは寺男ではなく、暗い目をした老いた男だった。男は黙って門扉を開いた。
獄寺も黙ってそれをくぐった。
 教会の内部はしんと冷えていた。石の床に靴音が響く。響いた靴音が高い天井に反響す
る。十字架の脇に蝋燭は灯っているが司祭の姿はない。代わりに席の最前列に、黒い、ま
るで亀裂のような影が腰を下ろしていた。
 リボーンの横顔は一瞬、蝋燭の弱い明かりに、死神のような陰影で獄寺の目に映った。
暗い眼窩。歯が臼のようにすり潰す口元。一瞬のことである。黒の中折れ帽が表情の半分
を隠しており、次の瞬間にはそんなものは見えはしなかった。獄寺は彼の手元に視線を落
とした。そこには沢田の銃があった。雨の中に捨てられていた沢田の銃。ホルスターごと、
それは側溝で泥水に浸かっていた。それを膝の上で解体したらしい。リボーンの膝には砂
粒や乾いた泥が乗っている。
 あの夜、会食の席では傘下の重鎮が雁首揃えて待っていた。彼らさえドン・ボンゴレの
失踪は知らない。沢田にとって兄弟子にあたるディーノもその席に名を連ねていたが、彼
へさえ伝えられたのは急病の報だった。しかしそこに、トラブル、或いは誘拐?のふり仮
名を見出す者は少なくない。山本が誘拐したと言いだす者もある。
 馬鹿の口は封じさせる、とリボーンは振り向かず言う。
「お前はあいつらを探し出せ」
 帽子の庇から滑り降りたカメレオンが口に搭乗券をくわえている。
「そんな…もう二日も経ってるじゃないですか。どうしてすぐ後を…」
「馬鹿、すぐに追いかけたら、あいつらすぐ捕まっちまうだろーが」
 誰も手出ししていない。誰にも手出しはさせない。お前が追いかけるんだとリボーンは
言う。
「ナポリで、ローマ行きのチケットを買った若い東洋人が見つかっている。が、乗ってな
い。搭乗券は捨てられていた。その先の足取りは不明だ」
 獄寺はカメレオンのくわえた搭乗券に気づいた。泥水を吸い、滲んだインク。ナポリ発、
ローマ行き。日付は昨日だ。夕方のフライト。雲の平原に広がる夕焼けを眺める特等席。
二人分。
「行け」
 組み上がった銀色の銃が獄寺の額を狙う。獄寺はカメレオンの口から搭乗券を取ると、
教会を出る。
 外の風が頬を叩いた途端、右手が無意識に煙草を探っている。コートのポケットに突っ
込んでいたそれを一本、唇にくわえた。不意に、呑み込んだ煙草の熱と共に胸の中を何か
がぐるぐると渦巻いた。その凶暴性に一瞬胸を手で押さえた。彼はその凄まじさに目を剥
く。用意された車に乗り込み、ナポリだ!と乱暴に叫ぶ。車の走り去った後には、煙草が
火の粉を散らしながら潮の匂いのする風に消し飛ばされる。



カテドラル





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