間違いのない休暇




 全く動かなくなってしまったアルファロメオの中で山本は溜息つくでなくシートにもた れ、煙草一つふかした。
 何の所為なのか。冬の霧雨が過ぎ去り、久しぶりに差した日の下で見たその車は確かに 光り輝いていた。カード一枚の提示でそれは山本のものとなり、理由もなく郊外に走り出 したが、草地の只中を午後の光を浴びながら何故か、それは一ミリたりとも動こうとしな いのだった。この牧歌的光景が気に入ったらしい。
 悪くないさ。山本は煙草をアッシュトレイに押し込むと、ドアを開けた。途端、頬や首 筋に触れたのは午後の陽光にかすかにぬくめられた早い春の風。霧雨にしっとりと濡れた 草の匂いがふわりと頭を包み込む。見渡す限りの草原、とまで母国の国土は余裕を持たな かったが、しかし人もなく、車もなく、あるのは雨に濡れた草と、山本の髪を好きに撫で 回す風ばかり。本当にここはイタリアか?
 山本は懐から携帯電話を取り出す。セーフ。通話可能だ。出ろよ。
 少し、ほんの少しだけ待たされた。それが相手の逡巡だと思った。
獄寺は不機嫌そうに「何だ」と言った。
「よう、暇か?」
「切るぞ」
 事実、スピーカーからは断線の音と無常な電子音が流れ始める。山本は声に出さず笑っ た。次は短縮ダイヤルナンバーワン。十年来の親友。彼のボス。
「山本?」
「獄寺は?」
「隣にいるよ」
「デートの邪魔したか?」
「書類と覚醒剤のダブルデートでよけりゃな」
「試すなよ」
「せっかく闇ルートを潰したのに、ボスが薬漬けじゃ話になんねーって」
 沢田の口調は少々乱暴で、悪との対面はそれなりにボスに負荷を与えているようだった。  ツナ、と山本は呼んだ。
「外、出てこねえか」
「外?」
「風が吹いてて、気持ちいいぜ。獄寺、つれてこいよ」
「バカンスは順調?」
「ああ」
「いいな」
 声があどけなく崩れる。ボスが簡単にバカンスに出はすまい。覚醒剤の闇ルートを潰し 報酬休暇をもらった自分とは違う。
 草の上を風の足跡が走ってくる。どんどんこちらへ近づいてくる。
「ツナ……、聞けよ」
 山本は携帯電話を持った右手を高く掲げた。
 風が吹き抜ける。ぬくもった風。頬に手を滑らすように拭き過ぎて。勢いがつく。涼し く、その強さに肌寒いほど、髪をなぶる、スーツの袖が鳴る、携帯電話を掲げた手が旗ざ おのように震える。
 ゆっくりと、ゆっくりと山本は腕を下ろした。そしてそっと耳に携帯電話を当てた。す ると、まるでそれを見ていたかのように、「野球バカ」と呼ばれた。
「獄寺」
 山本は目を丸く開く。
「何、キザなことしてやがんだ…」
「…一言、言ってやりたかったんだって」
 獄寺の声は携帯電話を受け渡すらしいその動きに従って遠ざかり、逆に受け渡されたら しい沢田の声が遠くからぐっと近くなる。
「獄寺も聞いたか」
「聞いた」
 沢田の声は笑っている。その向こうに少々憮然とした獄寺の気配が感じられた。
「ゆっくり休んで帰ってこいよ」
「諒解、ボス」
 通話終了のボタンを押す。切れた電波が風の中で散り散りに飛ばされる。山本は風に乱 れた髪を片手でかき上げる。
 さて、エンストの件は言い損ねてしまった。


 草地の向こうに日が暮れて、空があたたかな甘い紫に染まるころ、とうとう山本がその 足で蹴っ飛ばすと、アルファロメオはブルンと声を上げた。苦笑して山本は車をUターン させる。あとはワインの手土産があればパーフェクト、
「だろ?」
 ウィンドウを下げる。湿った草地を渡る冷たい風が吹き付ける。この風をまとって、そ してこの空の色のようなワインを。胸で算段。
 山本は携帯電話にキスを一つ落とし、助手席に放った。






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