膝の上のピアノ弾き




 泣いた後の身体はぐったりと重い。ようやくトイレから顔を出した沢田はよろよろと歩
き出すと、ソファから立ち上がりかけた獄寺を手で制した。
「そのまま」
 上質のファブリックの張られたソファに腰かけた沢田は、そのままゆっくりと背中をも
たせかける。その背中を受け止めたのは獄寺の背中だった。沢田は自分の背中を獄寺の背
中に密着させると、深々と息を吐き、目を細めた。まだ微かに吐瀉したものの饐えた匂い
がしたが、獄寺はそれを不快にも思わない。ぼとん、と音がして沢田の靴が片方、床に落
ちた。沢田は裸足になった方の爪先で、もう片方の靴の踵を擦る。獄寺の耳に、もう一つ、
ぼとん、という音が届いた。沢田は膝を丸め、裸足になった爪先を両手で掴む。
「どうぞ」
 獄寺の手渡したブランケットを、沢田はもぞもぞと身体に巻いた。そしてまた溜め息を
ついた。ベッドに横たわると、また浮遊感が蘇るような気がして眠れない。飛行機の中で
は一度吐いてしまい、それからはなるべく眠るようにしていた。夢うつつのまま到着した
初めてのイタリアは日が暮れかけており、用意されたリムジンの中から外の様子を覗くこ
とはできなかった。ホテルでは人目もあり、なるべく自分の足で歩いたが、ここが部屋だ
とリボーンが扉を開けた瞬間、全ての糸が切れたように、沢田の身体は再び彼の意志を無
視して倒れたのだった。
 山本が軽食を運んできてくれた。ウォーマーにはあたためた紅茶が入っているから、眠
る前に飲むといいと言った。おそらくアルコールを混ぜてあるのだろう。早く眠ってしま
いたくて一杯飲んだのだが、それもさっき吐いてしまった。しかしお蔭で気分はいい。隣
の部屋には山本もリボーンもいると思うと、何よりここが空中ではなく地上に建った建物
の中だと、飛行機の中よりもずっと気分はいいのだった。
「獄寺くん」
「はい」
「疲れてない?」
「あまり。こういった移動は慣れてますから」
「タフだね…」
 語尾は溜め息のように暗い部屋に消える。外は宵の口、カーテンを開ければそれなりの
夜景も望めたろうが、それは厚く閉ざされていた。
「俺は、疲れたよ…」
「今夜はゆっくり休んでください」
「で、明日からは忙しくなる?」
 ひねた様子の声音だった。獄寺が首をひねろうとすると、大丈夫だよ、自分から来たん
だ、と小声で言う沢田のくぐもった声が聞こえた。背中が少し離れ、猫背になった沢田は
ブランケットに顔を埋めつつ溜め息をつく。
「獄寺くん」
「はい」
「俺を守るって、本当?」
「ええ」
「俺のこと、命に代えても守るって」
「本当ですよ」
「死ぬの、怖くないの?」
「え?」
「俺、飛行機に乗ったのさえ、怖かった。自分のことしか考えられなくて、こんなに苦し
んでるんだから、誰かが俺を助けてくれるのだって当たり前だと思った」
「………」
「俺、まだかなり自分勝手だよ。自己中心的で、……こんなだよ」
「俺はそういう人が好きですよ」
 沢田は口を噤んだ。カチン、と音がして、続いて煙草の匂いが沢田の鼻にも匂った。
「自分勝手なら、こんな所、来なきゃいいでしょう? 部下にそんなこと聞かず、黙って
弾除けにでも何でも利用すりゃいいのに、あなたはそれを全部正直に話すんです」
 獄寺の声に笑いが滲んだ。
「あなたが部下のこと全然考えてないだなんて言ったって、俺は信じませんからね」
「…………」
「不安ならずっと側にいます。何だってします。あなたなしに、俺はここにはいない」
 煙を吐く音。ふうっと穏やかに吐き出される。
「俺は、あなたのことを思えば、何も怖くはありませんよ」
 沢田が既にうとうととしかけているのは背中で解っていた。けれども獄寺は照れず、面
と向かうように言った。
 背中への重みがずんと増す。獄寺はそっと沢田の身体を抱き上げると、ベッドの上で柔
らかい布団にくるんでやった。それからベッドの下に腰を下ろし、煙草を飲んだ。暗闇の
中に赤い火だけが浮かび上がる。
 獄寺は膝を立て、両膝の上に指を置いた。ゆっくりと弾きだす。モーツァルトの子守歌。
静かに口ずさむと、闇の中に紫煙が揺れた。







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