グッドナイトベイビー




 女の豊満な胸に抱かれていると、ここが俺の死に場所でもいいと一瞬なりとも思う。ど
うにも疲れていた。山本は上着を脱がせようとする女を、腕ごと丸々と抱き締めて、胸の
谷間に顔を押し付けた。女の乳房はその大きさの所為で少し垂れ気味だったが、気にはな
らない。あたたかく、柔らかく、洗ったばかりの湯の匂いがする。それだけで満足だ。
 目を微かに開けると、ベッドの上に広がった淡いブロンドが室内灯に照らされている。
パーマをかけたそれがシーツの上にたゆたうのを見ながら、山本は胸の中で小さく、あれ
が黒髪だったら、と思った。でも今、魅力的なのは女の髪よりもその胸だったから、独り
言は思考のトラッシュボックスに放り、またゆっくりと瞼を閉じる。
 女は身動きできないのが不満なようで、山本の腕の中でもぞもぞと動く。手がしつこく
動いて、上着を引っ張る。そのうちあまりに弛緩していた山本の身体はベッドの上に引っ
くり返された。
「あらら」
 山本は片目を開けて女の顔を見上げる。女はにやりと笑って山本の上着を脱がせようと
両手を上げる。
「やめろよ。今夜はこれだけでいいんだ」
「赤ちゃんみたいにおっぱいしゃぶるの?」
「胎内回帰って言うんだぜ、人類共通の願望だ」
「知らないわ」
 女は上着から容易く脱がせられるズボンに標的を変える。
「やめろって」
 しかしベルトは簡単に女の手の中に戦利品として納まり、ズボンはずるずると足首に向
かって引き摺り下ろされる。山本はうーんとうめいて苦笑した。
「そんなにおっぱいが好きなら、これでしてやってもいいわ」
 女は両手で自らの乳房を持ち上げると、べろりと舌を出した。
「いいよ、今夜は」
「あら、立たないっての? 男の名折れじゃない、こら」
 またうとうとと目を瞑ろうとする山本の頭を女の拳が軽く叩いた。山本は目を開けた。
女の顔は室内灯を背に影になっている。しかし白い顔だ。少し垂れ気味の目に、唇は小さ
くぽってりとしている。まるでサクランボのようだ。少し幼い顔立ちの下、山本の顔のす
ぐ側に垂れた大きな胸は魅力的だった。白く、しっとりしていて、豆腐のようだ。
 山本は腕を伸ばすと、女の頭を抱き寄せキスをする。サクランボのように赤く塗られた
ルージュを舐め、歯で軽く咬むと女の手も伸びてきて山本の両頬を挟む。
「…疲れてるのね」
 思いの外、短い口付けの後で女が囁いた。山本は微かに笑って懐から煙草を取り出し唇
に挟んだ。取り出したジッポを女が受け取り、火を吸い付ける。一口、深く吸い込み、ゆ
るく吐き出しながら、女にも勧めた。女は素直にそれを口にくわえ、山本の隣に横になっ
た。山本が腕を伸ばすと、それを枕に寄り添う。押し付けられた胸の質量は、服を越して
も十分に感じることが出来た。
「最近、来なかったじゃない?」
 山本は返事をせず、肺に残った苦い煙を深く吐き出した。
「娼婦は、怖い?」
「…どうして」
「有名だわ、ボンゴレファミリーの幹部が売春宿で襲われた話は」
「ついでに、その幹部は絶倫だって?」
「さあ、それはまだ確かめてないけど?」
 女は煙を吐きながら、ただの紙巻きね、と呟いた。
「薬をやるのか?」
 尋ねる山本の声は低い。女は頷く。
「たまに。いいお客が持ってくるから、一緒にとかね」
 山本が溜め息をつくと、女はベッドサイドの灰皿で煙草を揉み消した。
 肘をつき、山本は起き上がった。女の頭がベッドの上に落ちる。薬程度で怒るの、と女
の声が打って変わって物憂げに投げられる。山本は女の膝を掴むと、足を開かせた。女は
山本が何をするのか黙って見ている。山本は女の内ももに唇を押し付け、吸い付いた。唇
を離すと、赤い痕が残る。山本はその上に頬擦りをして、笑った。
「いい匂いがする」
「ありがと」
 山本は上着を脱いだ。ホルスターを外し、無造作に上着の上に落とす。女の目がそれを
追った。山本は女の視線の先を見、急に、兵士の訓練のような敏捷な動きで床の上に落ち
た銃を取り上げると、女に向かって突きつけてみせた。


 血の匂いが狭い部屋に満ちていた。天井近くにある、つまり地面すれすれにある細長い
窓からは港に乱反射する西日が差し込み、電球も切れた倉庫下の地下室に貴重な光を提供
していた。血に濡れたボストンバッグの中には乾いた葉がぎっしりと詰まっている。山本
は窓の下に立って、携帯電話でリボーンと連絡を取っていた。
 目の前には、細い西日に首筋から顎までを照らされて、獄寺が佇んでいる。煙草をくわ
え、漂う紫煙が光の中をゴーストのように揺れた。
「間に合った。アジトを押さえたぜ」
 山本は携帯電話を切る。獄寺は無反応で、顎の引き方から、足元に溜まった血を見てい
るようだが、定かではない。山本は携帯電話を懐に仕舞うと、獄寺の足元から血に濡れた
ボストンバッグを拾い上げ、埃を被った机の上に乗せた。同じ型のボストンバッグがあと
三つ、机の上には乗っていた。
「獄寺」
 呼んだが、獄寺は返事をしない。山本が肩に手を伸ばすと振り払われた。
「獄寺!」
 払ったその手を捕まえようと近づくと、不意に足元が血に滑った。
 西日の中に埃が舞い上がった。硬い床に響いたのは、人間の肉と骨をしたたかにコンク
リートにぶつける音だった。獄寺の険しい目が、上からのしかかる山本を睨みつけていた。
山本は唇を歪める。
「餓鬼の頃のお前を、ハーフだからって振ったファミリーだな。胸が晴れたか?」
 次の瞬間、獄寺の銃は山本のこめかみに、山本の銃は獄寺の額に押し当てられた。よう
やく獄寺が口を開く。
「退け」
「お前こそ」
「俺は日が暮れる前に十代目の許に帰る」
「で、跪いて、靴にキスして、おやすみか?」
 床の上の西日がじわじわと動く。日が海に没しようとしている。
 西日が獄寺の口元を照らし出した。
「もちろんだ」


 山本は銃を手の中でくるりと回し、銃口を自分に、銃把を女に向けた。女の顔はまだ凍
りついている。山本はベッドから足を下ろすと、ズボンを履き直し、身支度を調えた。最
後にホルスターに銃を収め、女を振り返る。女はぐったりとベッドに横たわっている。
「おどかして悪かった」
「…殺されるかと…」
「ありがとう、楽しかったぜ」
 女の頬にキスを落とし、乳房の上に吸い付くようなキスをする。すると急に女の手が動
いて山本の脇腹を擽った。山本の身体が跳ねる。
「ここ、弱いのね」
 女が笑った。
 山本は女の胸の間に新しい札を何枚か挟み込み、部屋を出た。
 通りは眠らぬ明かりが赤に黄色に人々を照らし、そこここから楽しげな嬌声と男の笑い
声が聞こえてくる。と、赤く照らされた看板の店から出てくる姿があった。黒く細い影。
中折れ帽が目深に表情を隠す。山本が軽く口笛を鳴らすと、顔が上がる。
「帰りか?」
 山本はリボーンの出てきた店の看板をちら、と見上げた。レッドプリズン。
「お前こそ、帰りにしては早いな」
 リボーンの目は、山本の背後の売春宿の看板を見る。
「帰りたくなったんだよ」
 つかず離れず歩き出す。歓楽街を抜けて、街灯が静かに石畳を照らす通りに出ると、空
に月が出ているのが分かった。猥雑な匂いが遠ざかり、変わりに港の、潮の匂いが鼻に香
る。山本は手で懐の銃を確認し、小さな、抜けるような溜め息をついた。
「何だ?」
 リボーンが尋ねる。
「ん」
 山本は目を細め、苦笑する。
「ツナの顔が見たくなった」
 口から出た言葉を、山本は確かにこれが自分の声だと思った。俺の声だ。
「ツナの顔見て、跪いて、あいつの膝にキスしてから寝たくなったのさ」
「…………」
 リボーンの沈黙が聞こえてきた。山本は、あんたは、という疑問を用意していたが、そ
れもトラッシュボックスに放った。答えは聞かずとも解ったのだった。
 二人の姿は街灯のない路地に消え、やがて、一本向こうの路地から地に響くようなエン
ジン音とスキール音が起こり、瞬く間に遠ざかっていった。港の側の歓楽街は相変わらず
猥雑に、人二人いなくなったことも気にせずはしゃぎ、通り向こうの埠頭は死の静寂と、
微かな血の匂いが漂っている。月光の清かな匂いをかごうと思った二人が帰る場所と言え
ば、一つのところしかないのだった。
 たまにはこんな夜もある。






みんな、ツナが好きですね。

ブラウザのバックボタンでお戻りください。