ひまわり




 ローマに戻ってきたら一番に私のところへ戻っておいで。彼のボスは言わずもがなのこ
とを、特に念を入れて言い含めたものだった。その柔らかな口調が、最後に自分を呼び止
めた掴む右手の感触が優しく思い出され、夢の中を大きく輪を描いてたゆたい彼を包んで
いた。それはあたかも春先の風のように心地良く、我知らず溜息が漏れる。
 列車がゆっくりと減速する。全身にかすかにかかる重力に抗い、ランボは瞼を開いた。
ローマの街並みが昼寝覚めの視界を、輪郭を溶かして流れてゆく。大きな伸びと欠伸を一
つ。もう一度目を開いた時には覚醒していた。ヒットマンの寝覚めが悪くては困る。彼は
自分の寝覚めに満足する。それは先の夢に尾を引いた甘い採点ではあったが、しかし彼は
今日一日の自分に厳しくあろうとは思っていなかった。必ず一等に帰っておいで。優しい
声が耳の奥をくすぐる。列車は鋼の車輪を軋ませ駅に辿り着く。ランボは立ち上がる。
 たゆたう春先の風に包まれていた肌が、どっと汗を噴出した。真夏の熱気がコンクリー
トの足下から生きた大きな生き物のように立ち上がり、たちどころにランボの身体を飲み
込んだのだった。しかしそれへさえランボは微笑んだ。彼はローマの夏の匂いを知ってい
た。そして勿論、それが自分の生まれた季節の匂いだと知っていたのだ。
 列車から降り立ったランボは、腕の中のものを抱きしめいっさんに走り出す。改札を抜
け、駅舎を飛び出し、南中した太陽の照りつける下を生まれたての光の粒子のように駆け
抜けた。街路にはその残像と共に紫電が散った。彼は南で手に入れた貴腐ワインを抱いて、
分別のない五歳の子供のように走る。彼の生まれた季節、それは即ちボスが彼を拾った季
節であり、彼の愛するパパ誕生の季節であるのだ。
 嬰児の彼が真夏の空を見詰めていたレストランの裏口、そのホテルの最上階で彼のボス、
彼の父は待っている。中小マフィアだと?馬鹿にするな。俺のボスはホテル経営だけじゃ
ない、男を一人、ここまで育て上げたんだぜ。彼は誇らしく胸を張る。幸福と感謝で緊張
させた顔を上げると、白い壁のホテルがローマ市中に輝きを放つが如く建っている。
 玄関の石階段を二段飛ばしで飛び上がり、ドアマンが慌てて開けた扉の隙間に身体を滑
り込ませるようにしてランボはホテルに飛び込む。
 さっと空調の効いた冷気が全身を包み込む。頭の中で、ボス、と呼ぶ声が叫び渡る。歓
喜のあまり泣き出しそうになった自分の声が。帰ってきたよ、オレ。一等に帰ってきたん
だよ、ボス。エレヴェーターには見向きもしない。走る足はボスの目の前に立つまで、決
して止まらないのだ。螺旋を描く階段を駆け上る。二段飛ばしで、三、六、九、十二!
 と。
 ひやりと。
 足が止まった。筋肉がその動きを停止した。しかし神経だけは、より鋭敏に身体中を駆
け巡っていた。
 首筋にひやりと、その真上から、何かが落ちてくる。冷たい雨のような。蛇口から流れ
落ち続ける真冬の水のような。酷く冷たく、そしてこの身体を縛りつける。
 ぐい、と顔を上げる。階段の上、陽光に白く光る窓を背に黒い亀裂のようなものが見え
た。最上階のすぐ下に佇むその姿を、ランボは見間違えようはずもなかった。が、彼はそ
の目を疑った。まさかこんな所で。ボヴィーノのシマのど真ん中もど真ん中、その中心点
で見るはずもない姿。
 唇が喘ぐように開く。声が出ない。けれどもその姿は、ランボには見間違えようもない。
「リボーン!」
 その叫び声がホテル中に響き渡ったその瞬間、幾つもの黒金が死神の舌打ちのような不
快な音を立て階段の人物を狙ったのだった。
 黒の中折れ帽の下から、その目はしかとランボを見ていた。己に向けられた十数の銃口
などものの数とも思わず、否、それが向けられていることさえ目に入らないかのような静
かな冷静さと、当然のような執着を以ってランボを見ていた。
 がちゃりと、最後の銃口が真上から向けられた。ランボは顔を歪めた。ボス。
 誰も動きはしなかった。ホテルは物音一つ立てず静まり返った。
 リボーンの背後で一際強い光が輝いた。南からゆっくり下り始めた太陽が彼の背に差し
掛かったのだ。その眩しさに、皆が一瞬怯んだ。その時、リボーンが右腕を大きく乗り出
すように横に振った。
 もうお終いだ!ランボは胸の中で叫んだ。叫びながら銃声を待った。リボーンの血まみ
れの死体が落ちてくるのを待った。
 しかし銃声は聞こえなかった。血濡れの死体も落ちては来なかった。
 頬に優しくそれは舞い落ちた。黄色い花びらがゆっくりとランボの頬に降り、滑り落ち
た。
 子供の掌ほどの向日葵の花が、階段の螺旋の中心を、太陽の光を背に降り注いだ。
 階段に、床に落ちてはぱさりと音を立て、銃を構えた男たちの頭の上にも降った。
 向日葵はどれほど降り続いただろう。そんなに長い時間だったはずはない。それは精々
大きな花束程度の量しかなかったのだ。しかし誰も、リボーンの姿がなくなっていること
に気づくものはいなかった。
 ランボは貴腐ワインを抱きしめたまま白く光る窓を見詰め続けていた。
「ランボ」
 優しく呼ぶ声と共に、肩に手が置かれた。ランボはようやく首を下ろした。眩しい光の
中でボスが微笑んでいる。ランボはようやく瞼を閉じた。緑色の残像が瞼の裏でじんじん
と痛んだ。


「あれがリボーンか…」
 淡い黄金色のワインから口を離し、ボスは心から感心したかのように言った。
「十年ぶりに見たが、いやはや…」
 向かいのソファに腰かけたランボは小さくなって俯いている。
 ボスは笑うと、もう一度、ランボにグラスへ注がれたワインを勧めた。
「ねえ、我が子、若者が恋をして飛び出していくのは仕様のないことだよ。泣かないで、
顔を上げてごらん」
 ランボは真っ赤に目を泣き腫らし、鼻を鳴らしてしゃくりあげた。ボスがハンカチを手
渡すと強く鼻をかむ。それからようやく顔を上げた。
「誕生日に泣くんじゃないよ」
 優しく語り掛けるボスは決して表面的な貫禄からそれらの言葉を発しているのではない
と、涙に腫れた目のランボにも分かった。彼は心からランボの帰宅を喜んでいたし、ラン
ボのプレゼントに溢れんばかりの愛情を感じていたし、窓際に飾られた向日葵にはちょっ
とした苦笑を禁じ得なかったが、それでもそれを愛でる心を失った訳ではなかった。ボン
ゴレのヒットマンの登場は勿論予期せぬものだったし、動揺させはしたものの、何よりラ
ンボが。
「ごめん…」
「しいっ」
 もう何度目かに謝ろうとしたランボの唇に、ボスはそっと人差し指を当てた。
「謝らなくてもいい。恋をした若者なら仕方のないことだよ。私だって…」
「…ボスが?」
 ランボが目を見開くと、ボスは優しく微笑んでランボの腕に触れた。
「私の愛しい暴れ牛め、明日になったら飛び出していくんだろう。行っておいで。行って
くるんだ。でも今日だけは、誕生日だけはここにおいで」
 向日葵は一本欠かさず花瓶に生けられていた。その贈り主に対して苦笑を禁じ得なかっ
たが、しかしこの小さな宴の席に華やぎを添えたことも、宴の主役である柔らかな黒髪の
泣き虫の青年に似合うことも、その青年を祝う宴の席では微笑をもって迎えられ得るもの
だったのだった。









誕生日を夏に捏造した牛ハピバ物語。
ナツさんへの誕生日プレゼント第2弾。

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