Gun grave




 遠くから、階下から、かすかにピアノの音を聞いた。途切れ途切れのその旋律が一つの
メロディであることをコロネロは知らない。彼には断続的な音の切れ端としか聞こえない。
朝靄をさざめかせるように、ゆっくりと流れるジムノペディ。音を響かせまいと踏んだペ
ダルの濁った音。それが眠りの底からゆっくりとコロネロの意識を叩く。
 あまりの心地良い眠りに、彼が隣にいることさえ忘れていた。
 コロネロは眠りに落ちるのと同じ急激な速度で目を覚ます。瞼を持ち上げ、枕元の顔を
見る。鎧戸の隙間から射す淡い光に、リボーンの横顔が見える。不機嫌そうに鼻を鳴らし、
彼はベッドから起き上がった。
 軍用ブーツを脱ぎ、裸足で、こんなにも静かに床を踏むのは何年ぶりだろうか。ヴェネ
ツィアの部屋はずっと昔、このベッドに眠る男が用意してくれたものだった。退役後、裏
マフィアランドの責任者として着き、過ぎた十年、こんな一般人の日常めいた床を踏んだ
ことなどなかった。軍役時代、潜水艦の、船倉の、鉄と油の匂い、絶えることのない轟音。
裏マフィアランドでも豪奢な部屋など作らせはしなかった。常に有事に備え、眠ったのは
せいぜい鉄骨の軋む軍用ベッドだ。
 とは言え、生まれたのはこの土地だからな。リボーンの用意した部屋は、確かに居心地
がいい。街の外れの、海の側。明るすぎる西日の射さぬ、北向きの窓。眠る部屋の主を静
けさで守るかのように、海風と波の音しか入り込まない静かな窓だ。コロネロはガラス窓
を開ける。木のすっかり撓んだ鎧戸の向こうでは、朝日が朝靄を散らしながら建物の屋根
屋根の上に顔を出す。
 帰る場所が必要だなどと、コロネロは思っていない。しかしリボーンがわざわざ用意し
たここを、コラ!、の一言でふいにしようとはしなかった。
 少しひやりとした匂いの空気がコロネロの鼻を刺激し、彼は一つくしゃみをした。する
と笑い声が上がり、見るとベッドの上でリボーンが身体を丸めて笑っている。
「コラ」
「…何だ?」
 凄んだが、リボーンは笑いを止めなかった。コロネロは裸体を剥き出しにしたまま笑い
続けるリボーンの上に、ずり落ちた毛布を投げかけた。リボーンはだらしなく身体の上に
かかった毛布を直そうともせず、笑い続ける。
 いつの間にかピアノの音は止んでいた。そのことにさえコロネロは、リボーンの笑い声
に気を取られ、気づかなかった。彼の耳に馴染んでいる音と言えば軍靴の足音、海中を征
く巨大な鋼鉄の塊の軋む音、対戦車ライフルの銃声、など、などといったところでピアノ
など全くの埒外であった。そしてリボーンの声は。
 コロネロはテーブルの上に残っていたワインを取り上げ、すっかりぬるくなってしまっ
たそれを喉に流し込んだ。リボーンはまだくすくすと笑っている。
「飲むか」
 ビンを突き出すと、リボーンが笑うのをやめた。手渡すと、仰臥したままそれを傾ける。
喉が上下に動く。飲み干される音。コロネロはベッドに膝をつくと、乱暴に黒髪の頭を持
ち上げビンを取り上げた。そこから先はリボーンの方が解っていた。
「起きぬけなんざ、ろくな趣味じゃねーな」
「映画では起きぬけにしてた」
「映画の中だけだ」
 それでもリボーンはキスし、コロネロの唇を噛む。思わぬ痛みにコロネロが目を細める
と、濡れた唇を歪ませニヤリと笑い立ち上がる。
「寝過ごした」
 時計は、そう遅い時刻を指しているわけではない。日が昇っていることが気に入らない
のだろう。ヒットマンは床の上から服を拾い上げ、埃を払う。しかしすぐにそれを着込む
訳でもなく、やはり裸足で床を踏みながら、そこそこに機嫌良さそうだった。ドアをだら
しなく開け放し、洗面台で水を使う。コロネロはリボーンがベッドの上に残したままのビ
ンを傾け、一、二滴落ちてくるワインを舌の上で受け止めた。
「ここにいろ」
 出し抜けに、言葉が口をついた。リボーンはタオルが見つからず水滴を滴らせながら部
屋を横切ってくる。部屋は用意こそされているが、クロゼットの中は空。台所の冷蔵庫さ
えも、あるばかりで電源を入れられたことなどないのだ。仕方ない、といった風に腕が伸
びてきて枕元のバンダナを抓んだ。コロネロはその手を掴む。
「リボーン」
「甘えてんのか」
 一瞬速かったのはコロネロだった。デリンジャーは狂いなくリボーンの喉元に押し付け
られていた。トリガーには勿論力が入っている。もうわずかの力でベッドを鮮血に濡らす
ことができる。
 急にリボーンの表情が変わった。目は伏せ気味だったが、口元が隠しようもなく嬉しさ
に歪んでいた。
「いいぞ」
 低い声で彼は言った。
「ここにいる」
 その身体は、鳥肌立てるほどに悦んでいた。コロネロはその理由を問わなかった。リボ
ーンがこの部屋にいればそれでいい。俺の側にいれば、それでいいのだ。


 くすくすと忍び笑いが漏れ出す。何が不満だと腕の下に聞くと、まるで近親相姦みたい
だと言われ、更に笑われた。幼馴染みだが兄弟じゃねーぞ、と反論。ならオナニーだと返
され、閉口する。
「まるでオレのキスだ」
 リボーンは笑う。
「なあコロネロ、そりゃ息のあう二人だぞ、オレたちは。けど、まるでオレがオレを犯っ
てんのかって勢い。似すぎだ」
 訳の解らないことを言っては、一人で笑う。手っ取り早く唇を塞ぎ、性感帯の極所を手
で押さえつけるが、それでも尚わずかに余裕さえ滲ませリボーンは笑った。
「その手も、これも、これも、これも、全部。オレたち、そっくりだぞ」
 その言葉の意味を知ったのは、その日の夜、対戦車ライフルを担いで寝静まった屋根の
上を渡り歩き、行き着いた先でだった。
 昼過ぎまでダラダラ寝ていたリボーンは、コロネロが食い物を漁っていた一瞬の隙に部
屋から消え、慌てて――何故、追いかけるのか理由も解らず――追いかけたが建物の中で
も、路地でもその背中を見つけ出すことはできなかった。夕刻、ようやくボンゴレのアジ
トから姿を見せたリボーンをそのスコープの内に捉えた。あとは独占欲とも、会えば挨拶
の殺意ともつかぬ衝動に押され、屋根から屋根へ狙い続ける。これが上手いところ夕陽を
背に移動しているところを見ると、案外、こちらの追跡に気づいての行動かもしれなかっ
た。
 そして知らない部屋に入っていった。夜半過ぎ、さっきまでバーにいたにも関わらず軽
い酔いの気配さえなく、むしろ殺意に近い威圧感を持ってリボーンはその部屋に入ってい
った。
 カーテンが開いていた。
 コロネロは向かいの建物の屋根に上り、ライフルを固定させる。そしてスコープを覗き
込んだが、否、しかしコロネロには解っていたはずだった。スコープを覗き込む前からリ
ボーンが何をしているかは解っているはずなのだった。
 見てるか、と耳元で囁かれた気がした。覗き込んだスコープの向こう側から、リボーン
の視線はコロネロの目を射ていた。その下に男を組み敷きながら、スコープのこちら側の
自分を見ていた。
 あの柔らかな黒髪の持ち主をコロネロは知っている。リボーンに愛人ができるたび、遠
く離れた海の上からそれを調べさせていた。リボーンの夜を独占するのはどういう女なの
か。たとえそれが男であっても、自分たち二人の関係を考えれば、リボーンの趣味も不自
然ではない。相手がボヴィーノ、中小マフィアではあるが、十年来命を狙ってくる――下
手糞とは言え――ヒットマンだということも、頷けることだった。写真では見たことがあ
ったし、おそらく十年前もその姿を自分は目にしたはずだった。あのバカらしい牛柄。見
忘れもしない。
 リボーンはわざと相手に自分を跨がせ手順の一つ一つを見せつけた。なるほど、キスも、
その手も、この手も、まるで定められた順路のように、あ、今痕をつけたところは、おい、
リボーン覚えているのか、昨夜の通りだ。違う、濃く色づいたあの痕は、つまりお前のお
得意の場所だった訳だな。そして俺がコピーキャットかコラ。
 海風が首筋を撫ぜ、コロネロは肩を震わせ、自分が息を上がらせていたことに気づく。
彼は唇を湿した。まだだ。まだ指は震えていない。きちんと、狙える。
 改めてスコープを覗くと、白い背中がこちらを向いて上下している。さんざん喘がされ
ている訳だな。リボーンはあのように乱れてはくれないが。さて、リボーン、その背中の
向こうでお前はどんな顔をしてるんだ。
 トリガーを絞る。腕に、肩に、慣れた反動。スコープの向こうでガラスが割れて、血が。
 否、血は流れていない。
 割れた窓からリボーンが顔を覗かせている。スコープのこちら側の自分を見ている。か
すかに上気した目元、薄く開いた口から覗く舌が唇を湿す。どんな息をしている、リボー
ン。お前はどんな息をしているんだ、今。お前の息遣いを、しかしコロネロは知ることが
できない。スコープから覗くばかりで、リボーンはその手に届かない。
「ずりーぞ、コラ」
 リボーンは何事もなかったかのように事の続きを再開するだろう。スコープから目を外
してもそれは解る。自分でもそうするからだ。リボーンならきっとそうするだろう。リボ
ーンも解っている、これ以上、自分が撃ってこないことを。この街を戦火に巻き込むほど
には、まだ滾ってはいない。


 北向きの窓からは海風が吹き込むばかりだ。狙撃を恐れて決して開けなかった鎧戸も、
開けてしまえば呆気なく、気持ちのよい風と、静かな波の音と、そして今朝目覚めの際に
聞いたような。階下から濁ったピアノの音が聞こえる。自分を狙い撃つ銃弾は、窓にその
背中を向けているのにいつまでたっても発射されない。勿論だ。リボーンが俺のために用
意した部屋なのだ。
 コロネロはベッドに腰かけ、ヘルメットを脱いだ。粗い髪が海風に吹かれ、ひどく涼し
い。こんなに無防備な頭を晒したのは、この世に生れ落ちたとき以来か。
 夜闇にまぎれるようにリボーンは姿を現す。いつの間にか、音も立てず、部屋の中に入
り込みコロネロの前に佇んでいる。笑顔の中で唇が歪んでいるのは自分の嫉妬を目算にい
れているからなのか。しかしコロネロはそこまで滾っている訳ではないのだ。
 リボーンは苦笑したようだった。無防備に晒された金髪の頭を抱き、自分から唇を寄せ
る。コロネロは一度は受け入れ、二度目を抗うように囁いた。
「あれがお前の墓か?」
「何?」
「オレはお前を墓と決めた。だからこの部屋にやってくる。お前が用意した場所だからな。
でもオレにとってはお前が墓だ。お前くらいだからな、オレの頭に弾をぶち込めるのは。
でもそれ以上に、お前は」
「墓、か」
「どうなんだ、あのボヴィーノの……ランボっていうのは」
 勿論、リボーンが答えないことをコロネロは知っていた。同じ場所で生まれ、同じ場所
で育ち、終いにはそのセックスをオナニーとまで言われた仲だ。
 コロネロも少しだけ笑った。その表情は余りにも苦々しすぎて苦笑と言うさえ難かった
が、しかし彼は確かに笑ったつもりだった。
「精々、謳歌しろよ。十八番目の愛人か。俺は一度だってお前が愛人を持つことを詰った
ことはないんだぜ」
 リボーンは優しく、何度も口づける。俺はこんなキスをしただろうか。俺のキスはこん
なキスだったろうか。気持ちよくって、そんなこと気づいたこともなかったぞ。
 ヴェネツィアの休暇はいつも長続きしない。コロネロが帰りたくなるからだ、鉄の匂い
や重油の匂い、硝煙の匂いと、土煙の舞う地に帰りたくなるからだ。きっと今度もそうに
違いない。
 肌を這う手つきに、またリボーンが笑っている。コロネロは背後からリボーンの首筋に
顔を埋め、その笑い声を堪能した。また、いつの間にかピアノの音が止んでいるが、気づ
きもしない。この世に音楽があるとすれば彼にとってマーチ、それ以上にはリボーンの声
の他、胸を揺さぶるものなどないのだ。








grave : 墓

時羽さんへ。
そして、リボコロラン絵チャの主催者でしたナツさんと、いらっしゃってた鴇子さんへ。

ブラウザのバックボタンでお戻りください。