Eighteeen



 石畳の道が、乾いている。靴音も、乾いていた。
 しかしランボは壁沿いに視線を上へ移動させ、建物と建物の間から見える細い夜空を見
上げた。乾いているのに、月がない。空は薄くラヴェンダー色に光っている。上空に低く
垂れた雲に地上の光が反射して、その奇妙な色の空を作っていた。いや、ランボはそうは
思わない。
 角の露店で飴玉を買う。前歯の欠けた痩せた少女がランボの指差した色とりどりの飴玉
を新聞紙に包んで手渡す。ランボが少女に金を渡すと、露店の奥のカーテンの隙間から太
った老婆の目が覗き、吊り下げた裸電球の光を受けてぬるりと光った。カーテンの向こう
からはポータブルテレビの声も聞こえてくる。
 北東から冷たい雨がやってくる。
 がさついたチューニング音が聞こえ、老婆はチャンネルを変えたようだった。古いヒッ
トソングがカーテンを揺らすように響いてきた。ランボは少女の胸元にコインを一枚放り
込んで露店を離れる。
 手探りで取り出した飴玉は、街灯にかざすと赤く濃く光る。ランボはそのまま指を離し、
口の中に落ちる飴玉を収めようとした。
 乾いた音がしただろうか。ランボはいつも半眼閉じ気味の垂れた両目を、ぱちくりと大
きく瞬いた。たった今指先を離れた飴玉がない。足元を見るが、ぼやぼやとした影は突然
闇に呑まれた。今度は確かに乾いた音が聞こえた。そして街灯のホヤの割れる音が。ガラ
スが石畳の上で小さな悲鳴を上げるのに背を押されるようにして、ランボは壁に張りつい
た。
 息を堪え、気配を窺う。手の中には飴玉の入った新聞の包、腰にはスタンガンがささっ
ているが、これが使えるのは刺客が自分の目の前に現れた時だけだ。
 再びガラスの割れる小さな悲鳴が聞こえた。通りの伸びる向こう側が闇に呑まれる。ラ
ンボはまだ灯りのある方へ向かって走り出した。するとその小さな悲鳴もランボと先を争
うようについてくる。走れども走れどもランボの走る一歩先は、すぐ闇に呑まれる。ラン
ボは闇から逃れるように走った。
 三つ先の街灯まで撃ち抜かれた時、ランボは更に細い横路地に入った。そこでも追手は
音を立てない。ランボには地の利があるが、この刺客はどうなのだ。地元の人間…?
 路地にさっと光が射す。この先にある広場をランボは知っている。壁画で有名な観光ス
ポットだ。ここは芝居が催されたり、夜になってもツアーの観光客が多い。暗殺とは闇に
葬る行為のことだ。人の多い場所では相手も諦めざるを得まい。ランボはスパートをかけ
るように、路地を塞いでいたゴミバケツを飛び越えた。
「イェア!」
 奇妙な掛け声が空から降ってきた。ランボは着地こそ上手くいったが、急なそれに怯み、
思わず駆け出す足を鈍らせた。それが命取りになったことは間違いなかった。
「ボナセーラ、エイティーン」
 声が笑っていた。その響きは外国映画でカットインされ外国人が無理矢理しゃべるイタ
リア語に似ていた。
 黒い腕が上に伸びる。それが頭の後ろに周った。茶がかったブロンドが逆光で塗り潰さ
れた影の縁で光っている。腕が再びぐいと持ち上がると、そこには暗視ゴーグルが握られ
ている。もう片手がどこを向いているかは、考えるまでもない。
 ランボは素早く腰のものを抜き、殴りつけるように右腕を伸ばした。バチバチと青白い
光が走る。
 その瞬間、見たのは楽しげに笑う大きな青い目と、映画スターを下から接写したかのよ
うに見える顎の無精髭。
 下から叩き上げるように右手が弾かれた。スタンガンはランボの手を離れ、宙を放物線
を描いて広場の方へ飛んでいった。次に感じたのは首の後ろへの押し潰すような圧力。身
体が前に折れる。顎を石畳に打ちつけた。痛みが脳天まで貫き、目の中に星が散る。
 悲鳴をあげる前に新たな痛みがかせられ、ランボは喉の奥で引き攣るような息をした。
腕が関節を外れる勢いで背に捻じ曲げられ、何かが――茶けたブロンド、大きな青い目に、
ハリウッドスターのような無精髭の――男が馬乗りになる。
 ゴリっと聞きなれた音がした。銃口が頭に押し当てられる音。
「逢いたかったぜ、エイティーン、マイファースト。でももうお別れだな」
 低い声が耳元で囁かれる。
 ランボは顔を上げようと抗い、まだ星の瞬く目を懸命に見開いた。広場まであと少し、
あと少しだったのに。拡声器の割れた、外国語が聞こえる。この言葉は聞き覚えがあった。
日本語だ。すぐ先に、おめでたい日本人観光客がわんさかいるのだ。何とか、こっちに気
づけ…!
 左手を伸ばす。ブレスレットが石に擦れて金属質の音を立てた。ふと馬乗りになった男
の空気が変わって、怒りを帯びた速さで左腕が石畳に押し付けられた。が、ランボが一瞬
早かった。彼は左手に持っていた新聞包みを広場に向かって投げた。
 色とりどりの飴玉が広場の光をうけて光る。
「あ、見て見て!」
 高い女の声がして、わらわらと人の集まる足音が聞こえた。
 頭の上で舌打ちというには余りにも稚気のある音がした。腕が放され、銃口があっさり
と離れる。
「なるほど、十八番目っつっても、伊達にリボーンの愛人はしてねえのな」
 それからフムフムと笑うと、髪を掴んで引き上げられた。
「じゃ、今度は本気でやろうぜ」
 男はランボの髪にキスを落としたようだった。わざと派手に鳴らす唇の音が路地に響い
た。
 ランボは立ち上がろうとしたが、瞬きをするたびに光と闇が入り混じる。路地がグロテ
スクに歪み、ランボは耐え切れず手で目を覆った。ふらついた身体が壁にぶつかった。壁
に沿いながら広場を目指す。
 リボーン? 男はリボーンの名前を口にした。ブロンドに青い目で、英語訛りの酷い即
席イタリア語を話す男。
 広場に出たランボは壁画を見下ろすようにしつけられた石段の上に倒れこんだ。日本人
観光客のわやわやとした喋り声が疲れた身体を包み込むように漂う。指の隙間から凹凸の
少ない凡庸な顔がぷわぷわと浮き上がっては自分を見下ろした。逃げるように目を閉じる
と、待ってましたとばかりに冷たい滴が瞼を打った。
 雨の降り出すのに合わせて辺りからは潮の引くように人の気配が消えた。冷たい雨に打
たれながらランボは、リボーンのことを思った。しかし浮かんでくるのは十年前の、あの
小さな黒い後姿ばかりだ。ランボはそれきり、気を失った。


 エイティーンの意味を教えてくれたのはボンゴレファミリー十代目の片腕、山本で、冷
たい雨が打ち込むのも構わず車のウィンドウから顔を出した彼は開口一番、襲われたらし
いな色男、と笑った。
「十八だよ十八」
 山本は宙にアラビア数字を書いてみせる。
 ランボは助手席に座って山本の指先を見ている。かつて日本のごく一般的な球児だった
男は、きっと彼の父が働いて一生に一台買えたかという高級車を易々と乗りこなしイタリ
アの街を走っている。しかも隣に暗殺者を乗せて、だ。
 ちらりと右の眼球が動き、ランボを捉える。
「これくらい知っとけ、十五歳だろ」
「オレが…」
「ん?」
「や…、なんでもない」
 オレがリボーンの十八番目の愛人だから、狙った。
 車は郊外を目指して走る。ワイパーが必死になって雨をかく向こうに見える道は、既に
石畳から舗装されたものに変わっている。この道の続く先は岬に立つホテルと教会だ。ラ
ンボは街から離れるのを微かに不安に感じながら、急いて次の質問を投げかける。
「マイファーストって何だ?」
「マイ、ファースト、な」
 山本はやはりステアリングから片手を離し、宙につづりを書いた。
「マイ。オレの、私の、僕の。自分のっていう所有な」
「ファーストは?」
「最初、一番目、あと野球のファーストかな」
 だから、と山本は続ける。
「オレの最初の、とか、オレの一番初めの何とかって続くんじゃないか」
 マイ、ファースト、ターゲット。
 十八番目の愛人が最初に狙われたのなら…、最後に行き着く先は言わずとも知れる。
「どうした、顔青いぞ」
「…………」
 ランボはドアに手をかけた。山本はゆっくりとブレーキを踏んですっかり閑散とした街
外れの通りに車を停めた。もどかしく長い足を車内から飛び出させ、駆け出そうとしたと
ころを、山本のぼそりと呟く声が引きとめた。
「…アメリカ人だ」
「え?」
「ま、頑張れよ。成長したところをリボーンに見せてやれ」
 短い黒髪の下で太い眉が意味ありげに持ち上がり、上目遣いに真っ黒な瞳が見上げる。
ランボは返事をせず、その黒い瞳に背を向けた。


 銃もナイフも、この十年で鍛錬を積んだ。幼い頃から触れているのだ。食事のフォーク
を持つようにこれは使いこなされていなければならない。ランボは弾を装填した拳銃を一
丁、予備の弾倉をパンツに押し込み、ナイフを一挺隠し持ち、待ち受ける。アパートの自
分の部屋だ。隠れては意味がない。奴を仕留めるのが目的だ。
「来い…」
 ランボは呟く。早く、オレを襲いに来い。降り続く雨に、窓はタールのような闇で塗り
たくられる。そこに些か強張った自分の横顔が映っている。
 ベッドの上に腰掛け、両手で銃を持つ。足が時折、武者震いをする。しかしサンダルを
履いた足はしっかりと床を踏み締めている。いつでも蹴りだせるように。顔を上げるとリ
ボーンの写真が目に入る。お前はオレが殺るんだ、リボーン。
 ふと、その顔が見えなくなった。残像が白く走る。部屋は音もなく闇に落ちた。ブレー
カーを落とされたか、配線を切られたか。が、好都合だ。ランボは左手を銃から離し、マ
ットの下に隠していたものを手探りで取り出す。掴む手に力が入る。まだだ。目を瞑る。
引きつけろ、奴がこの部屋に入ってくるまで。ランボはゆっくり立ち上がる。焦ることは
ない。奴はあれだけ気配を消しておきながら、登場は無意味なほど派手だ。
 窓ガラスが丸々一枚、派手に破られる音がした。重たい音が床を踏むのと同時にランボ
は左手のものを叩きつけた。
 音はしなかったが、それ以上に強烈な光が部屋から溢れ出すように炸裂した。
 これで暗視ゴーグルを嵌めた奴の目は潰した。ランボは窓の方向に銃を連射する。
「甘い」
 背後で囁かれたのはあまりの楽しさを押し殺したような掠れ声だ。脇腹を掠めた銃弾が
床にめり込む。ランボは横に転がりながら微かにそれを見た。
 発砲音のするたびに男の姿が闇に浮かび上がった。ランボが撃ち返すと、その口元は三
日月のように両端を吊り上げた。
「そうさ、本気でって言ったぜ、エイティーン」
 かっと足の骨が焼け串にでも変わったかのような痛みが走った。悲鳴を咄嗟に噛み殺し
銃を持たない手で触れると、温かく流れ出すものが掌を濡らした。
「痛いか?」
 男は闇の中をしっかりとした足取りで近づいていくる。
「が・ま・んって、我慢するんだよな、エイティーン」
 再び発砲音と一瞬の光が男の顔を照らし出した。ハリウッドスターのような無精髭。そ
れが涙で歪む。銃を掴んでいたはずの手が、力なくそれを手放す。代わりに掌からどくど
くと流れ出すものを感じた。
 噛み潰しても尚漏れる悲鳴が、耳障りに響いた。
「まだ、が・ま・ん、か?」
 男の気配がしゃがみこむ。そして焼けた銃口が瞼の上に押し当てられた。
 今だ。
 初めて聞く男の苦々しげな声に、ランボは唇を歪めて笑った。左手のナイフは男の腕を
深く抉った感触があった。滴る血の音まで聞こえそうだ。ランボは笑いながら壁伝いに起
き上がろうとし、尻餅をついた。
 舌打ちが聞こえる。
「ちぇ…ちぇ、何だ、やりやがるな。動かねえじゃねえか、指」
 笑い声が耳元で聞こえた。左手を思い切り踏みにじられる。血で滑ったナイフは手から
こぼれ、床の上を転がる音がする。上げようとした顔を広い手が掴んだ。ひどい音をたて
て頭が壁に打ち付けられ、再び銃口が、頬の上に押し当てられる。
「こっちは利き手じゃねえのよ、オレ。だから中々、死ねねえかも、しんねえぞ」
 荒い息をつきながら、銃口を肉に食い込むように押し当てる。
「それでもまだ、泣かねんだ?」
 喉を攣るような笑い声が銃口を震わせる。無精髭が顎や頬に触れ、無理矢理重ねられた
唇以上に不快感をかもした。
 引き金の絞られる音。
「チャオ」
 銃声さえ聞こえた気はしなかった。ふと風のように男の気配が目の前から失せ、どさり
と重たい音が床の上に落ちる。ランボは視線を巡らせた。しかしその姿は見つからない。
闇が濃い。
 ふと雨の音が蘇った。あまりにも静かだった。入り口に佇むその気配は無言のまま、こ
ちらを見下ろしている。
「…リボーン」
 ランボは呼んだ。
「なぜ……、なぜ、助けたんだ?」
 しかし返事はない。
「リボーン!」
 と、硬い足音が近づき力強い腕でランボの身体を抱え上げた。そしてランボを横抱きに
したまま、何も言わず部屋を出る。
「リボーン!」
 ランボは既に周囲さえ構わず大声を出す。まだ血の流れている右手を振り上げると、リ
ボーンは抵抗せずその手を頬に受けた。血が頬を濡らし首に流れ落ちるのが分かった。
 それでも尚、応える声はない。
「リ……」
 急に目の中が熱くなる。今まで我慢できたのに。オレは悲鳴さえ上げなかったのに。再
び名前を呼ぼうとした開けたランボの口からは情けない嗚咽がこぼれ出した。
「う…あ…ぁぁぁぁ……」
 雨の音が大きくなった。冷たい雨粒が身体を打つ。街灯に照らされて、石畳の上に血が
筋になって流れるのが見えた。ふと気が遠くなった。首を動かすのさえ億劫だ。それでも
ランボは涙と雨で霞む目で、自分を横抱きにした男を見た。
 気を失う間際、目深に被った帽子から覗く視線と合ったような気が、した。


          *


「やれ」
 後部座席にランボを放り込み、リボーンは言った。
 運転席の山本は首を捻り、ランボの血がシートを汚すのには全く構わず、それどころか
面白そうにドアを開けたまま佇むリボーンを見上げる。
「あんたは行かないのか?」
「オレは格下は…」
「相手にしないんだったな」
 山本が笑うと、リボーンは黙然とドアを閉めた。それを合図に、山本の車は素直に病院
を目指して走り出した。
 リボーンは自分でも知らぬ内、小さな息をつき、壁にもたれた。ふと見ると、向かいの
窓ガラスに自分の顔が映っていた。血が頬から首を伝って、雨に流されている。リボーン
はそれを手の甲で拭うと、振り払った。そして帽子を深く被りなおし、闇の中へ消えてい
った。





なんなんだろう、この、エセ本格マフィアぶりは……。

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