ダンディウォーカー氏の涙



 泣き声を、遠くに聞いた気がしたのだ。
 不意に目の前のアドリア海の青が目の裏で残像となって消える。
足元から霧でも湧きあがったかのような白く煙る不確かな視界、心
持ち揺らぐ足元。残像の青は瞼の裏側で滲む黄色に発色する。眩し
い太陽と、海を渡る風が遠ざかる。
 もうもうと立つ煙の中に尻餅をつく。途端に肌に触れるねっとり
と湿気を帯びた熱い空気。ああ、来ちまったんだなあ十年前に。あ
れだよ、にぽんって国だよ。ここの夏ってなちと異常じゃないか?
来るたんびに思うんだけどさ。
 煙幕が晴れてオレの眼に真っ先に飛び込む色は黒い、小さな背中
だ。そう大小のサイズでいけば十年前の(つまりさ、ここ、現在っ
て言うの?)オレとそうそう変わりないようなモンだけど、オレ、
十年歳とったオレにもローマの城壁が目の前に現れたみたいに見え
るんだ。でもオレは嘘吐きなので頑張ってあの、リボーンの小さな
背中をマシンガンで狙います。
 中略。
 いんや、中略するほどでもない、その間、僅か数秒。オレはその
数秒で痛い痛い致命的屈辱を毎度の事ながらあの小さな黒いリボー
ンから受ける。決して人様には見せたくない屈辱、だってオレは殺
し屋だもん。仕損じる訳ないだろ、なんせ十年後だし。って、う、
わ、涙が、溢れる、よ。
 がまん、がまん、と思うんだ。いつも。がまんしようと思ってる
んだけど、すげえ素直なんだな、オレの眼。してやられて硝煙の匂
いまみれ、腫れた顔が痛い。泣きながらちかちかと星が瞬く。瞼の
裏に、にぽんの太陽の黄色い光が青い残像になって瞬く。うわぁぁ
ぁぁん……。
 ああ、またオレが泣いてるなあ。


 アドリア海を目の前にオレは尻餅をつく。火傷を負って腫れた頬
の上を涙がとめどなく流れている。オレをここまで運んできた下っ
端の運転手が眼を丸くして見ている。オレは泣きながら車に戻った。
泣きながら手の中に十年バズーカの引き金の感触を思い出す。更に
十年後のオレを呼び出したら、どうなるのかしらん。ううん、その
頃はきっと偉くなって忙しくなって呼び出しに応じる暇もないんだ
ろうけど。
 ヤサに着いて腫れた顔を鏡で眺めたのは夜も更けたころだ。外付
けの螺旋階段を上る途中でホームレスを踏んだ。相手も驚いたが、
オレも驚いた。慌てて駆け上がって部屋の鍵をかけると、またぶわ
ぶわと涙が盛り上がってくる。
 洗面台の電球の、些か橙色かかった光に照らされて、顔の火傷は
いやに生々しく血に滲んでいた。オレはすっかりお馴染みになった
消毒液の壜を歯磨き粉の横から取り上げる。脱脂綿に含ませて触れ
る消毒液は痛かった。ヒリヒリするけど、オレはがまん、できるか
ら。できるんだ。だって涙を流したら消毒液が流れて、また、消毒
しなきゃいけなくってさあ……。
 床の上に汗で濡れたシャツを脱ぎ捨てる。ベッドに腰掛けると、
低いベッドにオレの脚があまりにも余って曲がっているのが、へへ、
オレ、あいつより脚はずっと長いんだぜっていい気になる。顔を上
げると壁にアイツの写真。
 リボーンの写真はかなり古いヤツだ。ちゃんと現像液に浸してで
きたキャビネ版の写真だ。オレは枕の下からナイフを取り出し、狙
いを定める。畜生、あの円らな眼、いっつも笑ってやがるあの顔、
オレは格下なんかじゃねーぞ、ねえんだぞ、オレは、オレっちは、
ランボは殺し屋なんだぞ。
 ナイフは顔から数ミリずれたところに深々と刺さった。そうだ、
このキャビネ版の写真は傷が多い。六ミリで狙ったこともあるし、
バズーカの焦がした跡が煤けている。
 でも、リボーンの顔は綺麗なままだ。傷一つつかないまま。
 時折記憶が交錯する。差し替えられる、とでも言うのか。記憶が
増えるとでも言うか。十年前のにぽんにいた記憶と、今のオレの十
年前に戻った時の記憶が無理やり嵌めたパズルのピースみたいに変
な絵を描いているんだ。
 オレ、今でもあいつを殺れないのかなあ。瞼の裏でリボーンの顔
が青い残像になって星みたいに瞬いて、視界がみるみるぼやけて。
あ、あ、あ、がまん。





伊達男はswingerなのだが。

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