恋人/Prova a ragionare sull'amore e perderai la ragione.





 哀しくなどない。
 と言ったら自分の手で何もかもゴミ箱に放るような行為になる気がしたので黙っていた。
なにもかもが億劫だ。椅子の上に永劫に近い時間が停滞している。動かない夜空。音を立
てない暖炉。動かない手、指。爪先さえ、震えもしない。息をしない。
 見つめているのはなんだろう。膝か。床か。その狭間の闇か。どれも目に入っては漠然
と通過する。通過し続ける。記憶として残されることなく、ただ目から入る闇が、闇のま
ま、頭の後ろに抜けてゆく。
 疲れた。とは言わなかった。それが二十三までに身につけた強さだった。タフネスだっ
た。自分なりの。マフィアのボスとしての。部下を命を委ねられた十代目としての。せめ
てものタフネス。疲れた、とは言わない。疲れなどに負けていられない。
 だから、哀しくなどない。はずだ。
 フィレンツェの夜は重く静かに停滞する。永劫に似た時間が暗い街の、路地という路地、
建物という建物、部屋という部屋に蔓延り、人を眠りに陥れる。故に眠る。眠らなければ、
人は、狂ってしまう、この長い長い闇の中では。
 沢田は。
 指はぴくりとも動かなかった。しかし沢田はその手の中に人の肌の感触を思い出してい
た。最期の握手。空港行きのバスの前で。笹川京子。京子ちゃんの手がオレの手を包み込
んだ。細い指が、両手が、オレの手を包み込んで。
 優しい感触だったなあ。少し冷たくて涼しい感じの肌だった。冬のカサつきがまだ残っ
ているみたいな、白くて乾いた手のひら。手のひらをまじまじと見つめたわけじゃない。
が、この手のひらが、手の甲が、あの白さを覚えている。京子ちゃんの手のひら。
 京子ちゃん。
 今、この口はその名を呼んだだろうか。フィレンツェの夜の中で。こんなにも暗く停滞
した闇の下で。まるで閉じ込めてしまうかのように。好きな人の名を。
 好きな?
 思い出せるのは、はたち前の笑顔だ。長い髪で傷ついた耳を隠した、あの笑みだ。はた
ち前の手のひら。学生で、親の庇護下にあった、柔らかな手のひら。月に一回のケーキが
楽しみでならないあの笑顔。
 思い出ばかりだ。好きなのか。懐かしいのか。あの平和に包まれていた時代が懐かしい
のか。笹川京子。あの女が愛しいのか。あの女だなんて、京子ちゃんはそういう風に呼ば
れる女の子じゃない。そうだ女の子じゃない。もう二十三歳だ。傷ついた耳を整形し、髪
を短く切り、英会話スクールで講師を勤める二十三歳の女性。
 の声を。
 聞きたいと思った、などと、そんな月並みな。ラブロマンスでもあるまいし。さっき電
話を終えたばかりなのだ。回線を変えて。番号を変えて。中継点を変えて。絶対に傷つけ
はしない。笹川京子。京子ちゃんは絶対にオレが護る。絶対に危険な目に遭わせたりなど
しない。
 京子ちゃん。撃たれ、形を変えた耳。それを隠す長い髪。笑顔。ケーキが好きだ。太る
のを気にしているのに。食べていいよ。月一回だけ三個なんてケチなこと言わないでさ。
オレは京子ちゃんの笑顔が見れるなら、その笑顔を絶やさぬためならば。
 ならば接触しなければよいだけのことだ。それだけでどれだけの危険から回避できるだ
ろう。回線を変え、番号を変え、中継点を変えても、結局、沢田と京子が繋がることに変
わりはない。
 本当に好きなのか。思い出に執着しているだけではないのか。手に入らないものを欲し
がるのは、ありがちな話だ。あの笑顔のためならば死ぬ気で退学を阻止することも。ああ、
これも中学時代の話だ。笑顔。はたち前の笑顔。電話の声はいつもどこかが張り詰めてい
る。つらそうで。好きなのか。もし愛していると言うならば解放してやるべき、だ、きっ
と。愛している。
 ツナくん。
 オレはバスの前で、少し顔を上に向けて目を瞑った京子ちゃんを抱き締めるしかできな
かったんだ。


 ドアの開く音が、やけにクリアに聞こえた。黙って沢田に近づいた黒い影は、窓のブラ
インドを上げ、鎧戸も開けた。
「ツナ」
 リボーンは囁いた。
「見ろ」
 窓ガラスの向こうに青が流れる。空から路地へ、水の流れるように青が流れて、建物が、
街灯の細い骨が、野良犬が、昨夜の死体が、濃い群青の輪郭を描く。フィレンツェの夜が
青く流れてゆく。空から路地へ、ヴェネチアの水路のように流れ。
 何故か沢田の目からは涙が流れている。


          *


 昇った日が再び西の彼方に沈み、黄昏が路地を満たしきる前に沢田はフィレンツェを去
った。つけられた車に乗り込む前、沢田はちょっとだけアジトを振り返った。古い壁に、
若者の、まるで書き殴った落書きが残されている。

 Prova a ragionare sull'amore e perderai la ragione.

 どんな手が、あれを殴るように書いたのだろう。手のひらの感触。
 沢田の口元に苦笑が浮かぶ。
「理性は失われたのか?」
 ツナの隣に乗り込みながらリボーンが尋ねる。
「これが愛ならな」
 ドアが閉まり沢田を乗せた車は青の流れ込み始めた路地、黄昏の中を、フィレンツェが
永劫に閉じ込められる前に走り去った。










Prova a ragionare sull'amore e perderai la ragione.
(フランスの諺:愛を理性で考えてみよ、あなたは理性をなくすだろう)

お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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