エントリー・ナンバーワン/愛人問題





 セックスという言葉を思い出して、ふと口にしてみると、妙な気がしたので煙草を揉み
捨てた。山本はらしくなく眉間に皺を寄せ、宙を見詰めた。性交と口に出すと、いよいよ
妙な感が漂う。でも同じことだ。ここでは隠語でしか聞かなかったこの行為の名前。中学
生の頃は呪文のような魔力を持っていた、この言葉。ぼうっとしている内に、足が机の上
の地図を蹴飛ばした。赤いペンがそれを追って床に転がった。
 ブラインドの隙間から昼下がりの白い陽光が射す。冬だというのに妙に晴れていた。こ
の国は冬に雨が降る。冷たく硬い季節の中、部屋のヒーターが低く唸ってこの男が日本に
いたころに思いを馳せられるほどの温もりを提供する。黒いスーツの足が長く伸びて、爪
先でヒーターのスイッチを下ろす。ちりちりと小さな音を立てて赤い火が落ちる。
 セックス。もう一度口に出す。まるで日常の中に息づいたこの行為が、沢田にとってま
だ未知の領域であることが不思議な気もしたし、また自分の道程を振り返るようで苦くも
あった。彼がこの行為を覚えたのは、まだ日本にいたころだというのに。別に越えるに覚
悟ある一線とは思えなかったかの自分は、今、やはり青二才にしか見えない。
 あいつは清冽だ、と口に出して呟いた。どうせ意気地のなさ、負け犬根性の延長で踏み
切れなかっただけだろうが、山本は、清冽だと呟きながら微笑した。
 明日は北へ向かう。おそらく向こうは雨が降っているだろう。小ぬか雨に濡れる中折れ
帽や黒塗りの車が目に映る。山本はやおら懐から取り出したリボルバーを構えた。後ろへ
反った勢いで椅子が軋んだ。照準を壁の一点に定める。広く貼り広げられた地図の上に赤
いピンが刺さっている。
 いつ死ぬとも知れない日々の中で、(そう、明日あの街で死んでしまうかもしれない。
死ぬ訳にはいかない、と心に定めれども)、自分は時折女の肌に溺れながら、ああ、また
この肉体に出逢うまで生き延びたと息をつき、そうか、あいつは……。
 赤いピンが弾け飛んだ。銃口からは、ブラインドの陽光に照らされて、立ち上る硝煙が
きれぎれに見える。山本の腕は動かない。
 リボーンが言ったのは、一言、子供を育てるには時間がかかる、ということだった。沢
田が十代目として運命を定められたのは中学生の時だった。リボーンやボヴィーノの殺し
屋はそれより幼いころからこの稼業についているが、それでも一年二年という訳にはいく
まい。まして、ただの駒ではない。ファミリーを掌握するボスとなれば。
 後継ぎが必要だ、とここまで直截ではなかったが、要はそういうことである。今や、血
を継ぐのは沢田一人。その沢田はリボーン以下ファミリー皆が命を賭けて護る所存だが…。
 お世継ぎ問題と言うと、家で母親などが好きだったワイドショウの話題だ。ああ、ワイ
ドショウなんてもんがあったな、と思い、山本はワイドショウと口に出す。が、まるで外
国語のようで舌に馴染まなかった。山本はようやく腕を下ろして、ゆっくりと後ろに反ら
していた身体を戻した。ガタンと音を立てて、椅子の足が床を踏んだ。
 京子が好きならばそれでもよい。京子を抱けないのならば、愛人を作るまでだ。ただ、
沢田がここまで純潔を保った理由は別にあるだろう、と山本は思う。
「なあ、獄寺」
 山本は物憂げな仕草でドアに銃口を向けた。それはゆっくりと開いて、影に紛れるよう
に獄寺の赤みがかった髪が跳ねているのが見えた。
「正直に言えよ。ツナとどこまでやった」
「やってねえよ」
 煙草の赤い火が揺れた。
「なお、悪いぜ」
 山本は疲れたように笑う。
 獄寺は短くなった煙草を床に吐き捨てると、踵で踏みつけた。ゆっくりと足音を立てて
部屋を横切る、その姿が白と黒の細いボーダーに切り取られる。山本もゆっくりと首を巡
らせて獄寺の背中を追った。獄寺は壁に張られた地図の前で立ち止まった。
「ミラノか」
「二、三日もすれば戻る」
「オレなら日帰りだ」
「荒い仕事はするなよ」
 鋭い目が振り向き、山本を射抜く。山本は椅子の上で脱力したままそれを見返した。
「…つっかかんなよ」
 牛乳飲んでんか、ときいたが返事はなかった。
 獄寺は踵を返すと、つかつかと足音高く山本の前に立った。
「昨夜、リボーンさんに呼ばれたのはそれだけじゃねえだろ」
 それはそうだ。明日のミラノ行きは何度も練られてのことだ。後は行けと肩を叩けば済
む。獄寺の目はその仕事を山本に取られたから苛ついている訳ではない。
「…ツナに女を作らせろとよ」
 少し、獄寺がらしくない顔で目を見開かせた。短く吸った息を止めてしまったことに、
本人も気づいていないかのようだった。強張った頬の上を走っていた陽光が、ゆるゆると
影ってゆく。やがて部屋が漠然とした灰色に満たされた頃、遠くを走る雨の音がした。
 獄寺の肩がすうっと落ちた。顔が無表情に静まり返る。靴が床を擦る音がした。山本は
獄寺の腕を掴んだ。
「…離せ」
「獄寺」
「オレも別にそんな仕事まで取ろうとは思わねえ」
「そうだろうな」
 かっとしたのか獄寺の腕に力が入る。が、山本は椅子を蹴って立ち上がると獄寺の腕を
捻り上げて、机の上にその身体を押し付けた。
「はっ……」
「おまえ、ツナとやりたいか」
 山本は獄寺の腕を酷く捩じり上げながら尋ねた。獄寺は声こそ漏らさないが、顔が歪ん
でいる。白目をむき出すように山本を睨んでいる。
「ツナと、セックス、してえかよ」
 セックスという言葉を口に出した瞬間、多分、山本は悲しくなった。この国に来て、悲
しさとは随分縁のない生活を送ってしまい、本当に自分が悲しいのかどうか分からなかっ
たが、そもそも何故この言葉に悲しさを感じるかも疑問だったが、胸の中でこう吐き捨て
ざるを得なかった。クソ、セックスだと、くだらねえ。
「糞野郎」
 獄寺が目を充血させて自分を睨め上げている。
 そのとき山本の手がそう動いたのは、八つ当たりだ。おそらくそうだった。不意の暴力
的な感情だった。山本がだらりと下げていた銃は、獄寺の後頭部に押し付けられた。
 山本は疲れきった唇を動かした。
「おまえらは私情を挟みすぎていけねえよ」
「…いっぱしのマフィアみてーな口利くじゃねえか」
「三日で人殺しまくってファミリー全滅させる、いっぱしのマフィアさ」
 沢田が獄寺を好いていなければ、これほどに二人の禁欲的生活が続くだろうか。いや、
お互いに好いているのに、何故これほどに禁欲的生活が続いたのだろうか。愛だけで満た
された? 冗談にしか聞こえねえ。
 山本は銃を捨てた。それは床の上で重たく沈黙した。微かに獄寺の息遣いが聞こえる。
「オレのものになれ、獄寺」
 獄寺の身体が一瞬痙攣するのを、山本の手は感じた。そしてもう一度、今度は耳元で囁
いた。
「オレの愛人になれよ、獄寺」
 おそらくおまえは死ぬまで沢田の側にいるだろう。まるで結婚の誓いのように、それは
破られることはあるまい。けれどもおまえはきっと死ぬまで沢田を抱くことはないだろう。
沢田もまたきっと魂の双子のようにそれに応える筈だ。柔らかな肌を持つ女、包むような
快楽を与える女、乳房、たゆたう髪、誘う細い指などには目もくれず。
 山本は獄寺のベルトに手をかける。腕の下で獄寺が総毛立つのが分かった。山本は唇を
歪め、わざと舐めるような声を出す。
「抱かれちまえ。楽にしてやる。こう見えてもおまえのこと気に入ってるんだぜ、獄寺、
オレは……」
 オレは。山本の脳裏に夏の屋上が過ぎる。沢田と最初から親友だった。平穏な生活に別
れを告げて海を渡るほどに、信頼もしあっているし、どれだけ大切だろう。おまえは、知
っているよ、おまえは沢田に恐れられていたはずなのにな。
 いつの間にこんなに深く結ばれるくらいなら、何故セックスというライン越えができな
かったのだろう。自分がかつて簡単すぎるといって越えてしまった線を、おまえらは何故、
お互いの間に強固に引いているのか。
 ふと、獄寺の身体から抗う力が抜けた。山本の手は獄寺のジッパーを下ろそうとして、
止まった。微かな息が聞こえる。山本はしばらく獄寺を組み伏せたまま、その息遣いを聞
いた。観念したフリをして隙をつこう、という様子でもない。目が軽く、伏せられていた。
「獄寺…」
 山本はまた、多分、悲しくなった。今度は多分悲しいのだろうと自分でも思った。顔の
筋肉が脱力してしまって、だらしなく呆れたような笑みに崩れた。思わず息を吐く。
「そんなに……だよなあ…」
 言葉とともにだらしなく漏れた息が獄寺の髪を揺らした。
 山本はゆっくりと手を離し、獄寺を解放した。次の瞬間、拳が左の頬にめり込んだが、
この程度は甘んじよう。乱暴にドアが閉まり、窓が震える。高い足音の余韻が去ってしま
うと、山本は今度こそ盛大に溜め息をついてよろよろと壁にもたれた。不意に緩い笑いが
込み上げて、唇の端から漏らすように笑った。
「セックス」
 悲しい。



 その夜、日本の京子に電話する沢田の隣で山本は、オレの子供を産んでくださいって言
えよ、と沢田をせっついた。沢田は受話器の話し口を掌で塞ぎながら、馬鹿言うなよ、と
顔を真っ赤にして(そうだまるで中学生のように赤い顔で)山本に唾を飛ばした。
 山本は笑うだけ笑うと、清冽な男の頭に口付けを一つ落とした。








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