出発/耳鳴り






 夏の匂い、とは何だろう。誰かが窓を開けたらしい。からりとした暑い空気を押し流す
ように涼しい風が洗面室にも吹き込む。剃刀の刃の滑る感触とは別の、汗と熱を奪うひや
りとした涼しさが首筋を掠める。沢田は吐息をつき、剃刀の動きがふと止まる。風が抜け
切ると、再び優しく顎を滑り始めた。
 流れる水の透明な匂い。グラスに注いだ炭酸の弾ける泡の匂い。暑い空気の匂い。ひっ
そりとした常緑樹の木陰を越して、微かに届く石畳の焼ける匂い。そしてこれも微かに、
火薬の匂い、だろうか。年中鼻にするこの匂いも、夏の匂いを帯びている。
 窓から覗く宝石のような碧空の輝きが床に反射し、沢田の瞼の上にも映る。それを獄寺
は見ているのだろうか。
「獄寺くん」
「何ですか、十代目」
「飛行機、好き?」
 急な問いに、獄寺は一瞬黙り込み、そうですね、と囁いた。
「特に考えたことはありませんけど、悪くないですよ」
「俺さ、覚えてる? 初めてこっちに来たとき、酔って、吐いたろ?」
「ええ」
「だから苦手でさ、思い込みって言うのかな」
 あと飛行機の耳鳴り、と呟く。
「離陸するときと、着陸するとき、耳がぼわーんってなって痛くなるやつ」
「十代目、耳抜き下手ですもんね」
 獄寺が短く笑う。
「あれ気持ち悪いけどさ、頭痛くなって。でも、なんだろ、あの耳鳴り、すごく……」
 沢田が口を噤む。剃刀は優しく頬を滑る。その滑るなめらかさに沿うように、沢田はゆ
っくりと言葉を選んだ。
「色んな感情が…揺らされて…浮かび上がらせられるんだ」
「色んな…」
「不安だとか、どうしようとか、やっと飛び立つから嬉しいとか、空飛ぶの楽しみだとか
……そういう飛行機に乗ったからって感情だけじゃなくて、なんか、胸、痛くなったり」
「切ない、ですか?」
「色々、悲しいみたいな、なのに嬉しくて胸がはちきれそうになったりするだろ、ああい
う気持ちとか、揺れて、どれがどれだか分かんなくなる感情」
「それ、俺が初めて十代目に会ったときの感情に似てますよ」
「初めて?」
「十代目が、こぼれたダイナマイトの火を全部消してしまったあのとき。あのとき、俺、
死ぬの覚悟してましたから」
「あ…その話止めよう…照れる」
 笑い声と共に、冷たいものが頬に触れる。獄寺が水に浸したタオルで顔を拭ってくれた。
「さ、終わりです」
 目を開けると、剃刀を仕舞った獄寺が、グラスの炭酸水を呷っていた。喉仏が上下する。
首筋に薄っすらと汗が浮いている。そこを夏風が吹きすぎる。さっぱりとした顔に風は一
段と涼しい。
 入るぞ、と声がしてやってくる足音。踏む足音さえ陽気なのは山本だ。
「よう、用意できたか」
 顔を覗かせた、その鼻の上にはサングラスが乗っている。
「今」
「行くぞ。飛行機、そろそろ到着だ」
 と、一度は引っ込みかけたが、おい獄寺、とすぐに舞い戻る。
「汗」
 腕を伸ばしハンカチで獄寺の首筋を拭う。獄寺はグラスを取り落とすかと思うほど慌て、
うるせえな、邪魔なことすんな、と山本を蹴り遣る。山本は笑ってそれをかわし、よう、
色男になったな、と髭を剃り終えたばかりの沢田を小突く。するとまた獄寺がいきり立つ。
沢田は呆れて、二人の背を押し、洗面室から追い出した。
 外には雲一つない、海のような深い色を湛えた空が広がっている。山本が自慢の車に乗
り込み、部下が後部座席の扉を開く。
「リボーンは?」
「先に空港張っとくってさ」
 運転席から山本。
 車は静かに滑り出す。何年かかり見慣れた街並み。未だ慣れぬ街並み。走り去る異国語
の看板。薄着で出歩く人々。街路で遊ぶ少年達が、指鉄砲で打ち合っている。日に焼けた
肌が眩しい。
 空を見上げると、雲一つない碧空の端に、ピンの先のように小さく、白く光るものが見
える。ジェット音はここまで届かない。まるで宇宙までもゆくかのように、小さな飛行物
体は空の端に消えてゆく。
 笹川、今度はハルも連れてくるんだろ、とバックミラーから山本が話し掛ける。うるせ
えだろうな、と獄寺が渋い顔で言う。賑やかでいいじゃねえか、と笑い声。
 それら会話を聞きながら沢田は耳の奥に微かな耳鳴りを感じ、そっと目を閉じた。











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