レストルーム/帰る場所





 便座に腰を下ろし、溜め息をつく。その瞬間、ああまたこの瞬間に来てしまった、と山
本は思う。便所の洋式便座に腰を下ろし、溜め息をつく。その瞬間、妙に神経が冴えて、
自分がこの場所に存在していることの実感が頭の後ろから寒さの広がるように全身に認知
される。
 馴染みの感覚だ。いつからだろう。学校に通い始めて、学校の便所というものを知って
から。ベニヤのドアに、汚れたタイル。いつも掃除はされているはずなのに不衛生さを感
じるこの個室に腰を下ろすこの瞬間を、山本は毎度、毎度、同一の瞬間に存在するように
感じるのだった。時間がループしてこの瞬間に帰結し、この瞬間から始まるような。小学
校に入りたてで洟を垂れながら便座に座った瞬間も、中学の授業をサボってかったるく便
座に腰を下ろした瞬間も、そして今、銃を手に便座に腰掛けているこの瞬間も、全て同一
の空間、同一の時間であるかのような。
 この空間は妙に冴えている。ドアの落書きを、じっと眺めている訳でもないのに細かく
視覚認知することができる。換気扇の回る、向こうの音、猫の欠伸さえ聞こえる。ドアの
向こう、息をひそめる気配を神経が探る。誰がいる。新たに追加された感覚認識。そこに
は誰がいる。誰が、殺しにくる?
 溜め息をついて脱力した次の瞬間の閉塞。ドアを閉めて安堵した直後の不安。このない
交ぜの一瞬が、毎度懐かしい。またこの瞬間に来ちまった。よう、何度目だ? 自分の面
影に挨拶するようだ。未来の自分にさえ顔を合わせた気分だ。過去未来問わず、感覚は共
有される。そうだ、それ以外にもここにはもう一人、俺がいる。腕を骨折した中一の夏、
ふと入った便所の個室でもやはり腰を下ろしては溜め息をつき、もう死ぬしかないと思っ
た。それから屋上へ上ったのだった。が、どうだ、また生きてここに来ちまったぜ。
 便所は一人だ。いつもの人の輪から抜け出してここに腰掛ける瞬間の安堵は、確かに今
でも味わう。しかし今は、白く塗ったベニヤのドアが酷く不安感を掻き立てる。山本は銃
を両手に構え、便座に腰掛けている。出かけた先で便所に入るのは嫌だ。この瞬間を狙っ
てくれと言わんばかりだと思う。このまま撃ってよし。逃げようと脱いだズボンに足をと
られ無様に倒れたところ後頭部に撃ちこむもよし。あわよくば逃げ出したとして、性器丸
出しで命永らえようとする無様な姿を晒した上で蜂の巣にするもよし。
 銃把を握り締め、山本は据わった目をベニヤのドアに向ける。開いた足が汚れたタイル
の床を踏み締める。ズボンを下ろすどころか、ベルトを緩めてさえいない。俺は死なない。
こんなところでは死なない。
 片手で水を流す。息をひそめる。水音の妨害などものともしない。そこに立つのは誰だ。
お前も銃を構えているのか。俺がドアを開けた瞬間、こめかみを打ち抜くか。それともド
アノブを握った瞬間、ドア越しに心臓に一発か。心臓が飛び出しそうだ。口元が無意味に
笑う。中学生の自分が共有していた同一の空間から、現在が乖離し始める。銃を握った指
先から、イタリアの夜がじわじわと痛みを伴って蝕むように、帰ってくる。
 便所の汚れたタイルの上に音は反響した。開け放たれたドアが、蝶番も壊れ、床に落ち
る。山本は両手で構えた銃を獄寺の眉間に突きつけている。獄寺は煙草の煙を吐き出し、
横目に山本を睨みつけた。
「…やるか?」
 低い声で獄寺が問う。山本はようやく口元から引き攣ったような笑みを消し、顔面の緊
張をほぐした。
「やってもいいぜ。やっと俺の愛人になる気になったか? 獄寺」
「ちげえ」
 山本は銃を腰に戻す。小さく嘆息した。
「まあドアも壊れたからな、個室の意味ねえし」
「しつけえよ」
 カルシウム足りてねえな、やっぱ、と山本は笑ってみせ、手を洗う。目の前の鏡を見る
と、獄寺がドアの壊れた個室の中を覗いていた。閉じた便座の蓋を見たのだろう、ちらり
と一瞥した視線と鏡の中で目があった。
 濡れた手をスーツに擦りつけて拭く。スーツの値段が気にならない生活にすっかり慣れ
てしまった。車のシートに血がついても痛くも痒くもない。銃がやけに手のひらに馴染む。
このまま離れないかのように。便所を出かけ、山本は僅かに振り返る。もう、あの空間に
は帰らないかもしれない。
「山本」
 獄寺が不意に呼んだ。
「こういうときくらい、俺を信用しろ」
「…は?」
「便所くらい、安心して……」
 言いかけて口を噤み、バカらしい、と獄寺は苛ついた目で新しい煙草に火を点けた。
「獄寺…」
「なんでもねえよ」
 獄寺は怒ったように便所を出てゆく。
 本当だ。馬鹿らしい。便所くらい安心して入れだとよ。獄寺の科白でもねえ。俺なら吐
くかもしれないが。俺が護ってやるから、安心して糞をしろ、か。こんな馬鹿らしい科白
はねえよなあ。汚れたタイルに安いベニヤのドア。入っちゃ腰を下ろして溜め息をつき、
時々、死ぬことを考える。そんな暇を与えてやろうと?
 山本は壊れたドアを元のところに立てかけた。その向こうに、まだあの空間はあるだろ
うか。過去未来と共有された、もう一人の俺のいる、あの便所の個室は。
「獄寺と連れションか」
 笑うとマイトが数本飛んできた。











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