ムジカ/暗闇の世界





 しんと静寂に満たされた薄闇の中から、蔦の新芽の伸びるようにするりと音が流れ出す。
そのままつるつると形を成して耳から入り込み、弦楽器、木管楽器、金管楽器、各々の音
色が頭蓋の中に自在の根を張る。久しぶりに聞いた音楽はこのように沢田に聞こえた。


 獄寺が最初に誘ったとき、沢田は渋ったものだ。オーケストラの演奏会と言うと、学校
行事の延長のようで退屈と睡魔以上のイメージが持てない。リボーンが行けと促したので
義務的にこの椅子に座っている。木の深みのある暖色をしたホール。退屈の予感に沢田は
欠伸を噛み殺した。隣に座る獄寺は真っ直ぐ舞台を見詰めているが、きっと自分の様子に
は気づいているだろう。悪いけど…、と沢田の目尻には欠伸で押し出された涙が湧く。も
う反対側に座る山本が囁いたようだが、よく聞こえない。と、微かな波のようなざわめき
が静まり、静寂と共に闇に落ちた。
 初め、演奏が始まったのに沢田は気づかなかった。異変は徐々に沢田にも理解された。
(聞こえない…)
 指揮者が懸命に腕を振っている、バイオリンの弓が動いている、しかし何の音も聞こえ
なかった。
(ああ、オレの耳…)
 潰れたのだと思った。銃声に、断末魔に、爆音に、この耳は潰れたのだと思った。もう
これら正常な音を聞く耳は失ったのだと。しかし沢田は自嘲の笑みさえ浮かべなかった。
当たり前のことと思ったのである。両隣に座る獄寺と山本のように、顔だけを正面に向け
る。二人の部下は気を抜かず、背中が背もたれから微かに離れていたが、沢田は構わずゆ
っくりと背を預けた。
 のしかかる無音と闇は、耳慣れないクラシック以上に退屈だった。不意に人差し指のさ
さくれが気になった。沢田はそれを親指の腹でさすった。感覚のなくなった硬い皮が千切
れもせず指先にくっついているのが気になる。いつの間にか視線もそこに落ちていた。薄
ぼんやり浮かび上がる自分の指。ささくれがあるはずだ。親指の腹に触れる。暗い中では
よく見えないが…。
 急にその手が、大きな手に覆われた。沢田は顔を上げた。山本の横顔が見えた。その目
は真っ直ぐ演奏者達を見ているが、手は軽くささくれた人差し指を持つ沢田の手を覆って
いる。やがて山本の手は包み込むように沢田の手を握った。
 と肩や後頭部を叩く感触があった。皆が拍手をしている。指揮者が振り返り、一礼をし
て、再びオーケストラと向かい合う。
 そして音は伸びてきた。沢田の耳に、根を張る蔦のように伸びてきたのだった。
(オーケストラって、こんな音楽だったっけ)
 そんな漠然と過去を振り返る思考も音に包み込まれ、消える。背骨から、神経の根幹を
伝って音楽の根が伸びる。肩からほぐれるように力が抜けた。床に着いているはずの足も
雲を踏むように曖昧になる。根に支配されたところから沢田の身体は脱力し、視覚さえも
朧になるが、音楽ははっきり見えると思った。
(あ、見える…)
 既に、聞いているという感覚はない。どこもかしこも音楽となる。沢田に根を張って、
響き去る彼方まで広がってゆく。薄闇の中を新芽が、枝葉が咲き誇り、沢田を根にして壮
大な闇が咲く。俺は根だ。この心地良い壮大な音楽の渦巻く根だ。咲き誇る音楽の生まれ
る底にいる、俺は闇だ。
 すると咲き誇る枝葉の先でなにかが笑うのを感じた。ああ、京子ちゃん。俺は十代目に
なったかと思ったら、本当は違ったんだぜ。俺は根だったんだ。この音楽、凄いだろ、日
本まで届いたよ。俺が根なんだ。そしたらこんなに咲き誇ったんだ。この闇、全部俺の世
界だぜ。沢田は胸を張る。
 凄いだろ。


 柔らかなざわめきがホールを満たす。山本は席を立たない。山本に手を握られたまま沢
田は深く深く椅子に腰掛けている。俯いた顔、息の音が微かに、規則正しく聞こえる。獄
寺が眉間に皺を寄せて見たが、やがて溜め息をついた。
「よく眠ってる」
 山本は口元で微かに笑う。獄寺は肩を落とし、残念そうに沢田の顔を覗き込む。
「…やっぱり退屈だったか……」
「まさか」
 からり、と山本は答え、沢田の寝顔を優しく、軽く目を伏せるようにして見た。
「よく、聞こえてたさ」










お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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