Baci./誘惑






 何がしかの終わりを告げるように雨は降り続く。それは世界の端から引かれる幕であり、
音もなく世界を壊している。灰色の空が流れて雨になり、脱色された街が端から砕けてゆ
く。瓦礫の後など見当たりもしないのは、どれもこれも色を失ってしまっているからで、
見れば濡れて歪んだ模様を描く窓ガラスの向こう見える木立もその先の尖塔も、空と同じ
色に同化し始めている。この調子では日本はとうに壊れたろうなと思いながら、沢田はぬ
るくなったコーヒーに口をつける。それにも色がついていないから、おそらく自分の身体
が脱色されて砕けるのも時間の問題だ。
 という妄想が馬鹿らしいものだと自覚しながら沢田は疎らに生えた無精髭を指で擦る。
それを見る度、山本は眉をハの字に下げて、思うらくは、気を揉んでいるのであった。リ
ボーンは髭など、まるで目に入らない様子で無視。獄寺は姿を見せない。急な終結を迎え
た抗争の後始末で飛び回っている。沢田が指示したものではないから、本人が志願したか、
リボーンの指示かどちらかだ。
 指先に触る慣れぬ感触。仄暗い窓ガラスに映るその面相に髭は似合わない。口髭も、顎
鬚も、疎らで薄く、しかしそれの濃い様を描いたところで沢田の面差しは割合幼いものだ
から似合うものではない。下手な変装のようにそこだけ浮いてしまう。
 背後で扉がノックされる。背を向けたまま、入れ、とぞんざいに言葉を遣れば、扉は陽
気に開いて山本が姿を現した。
「よく降るよなあ、まいった」
 椅子ごと振り返り、見れば髪の毛が少し濡れている。
「歩いて出たの」
「市場のバアチャン達に顔見せてきたんだ、心配してたからな」
「モテるね」
「おうよ。で、これもらったんだ」
 山本は机の上に半分に割られた林檎を置いた。
「毒見済み」
 しかし沢田は林檎には目もくれず山本を見上げている。正しくは山本の濡れた髪を見上
げていた。山本は雨に打たれても脱色しないんだなあ。知らず知らずのうちに手が伸びる。
山本が少し驚いて動きを止める。
「…どうした」
 山本が机に手をつき、顔を近づけると沢田は目を伏せた。指先が濡れた髪に触れる。つ
めたく冷えている。沢田の指は躊躇うように、それに触れ、離れしていたが、急にその髪
の毛を掴んだ。
「ツナ」
 囁く声がし、山本の顔が更に近づく。沢田は更に目を伏せた。指先が冷たい。鼻先に吐
息が触れる。
「……はっ」
 急に山本は笑った。沢田は瞼を持ち上げた。山本は眉をハの字に下げて苦笑している。
「なあ、ツナ。髭、伸ばし始めて何日だ」
「覚えてないよ」
「俺が剃ってやろうか」
「…山本が」
 沢田は山本の目を見る。山本は沢田の目を見返して笑い、ああ、と返事をする。返事と
一緒に手が伸びてきて沢田の顎をなぞる。沢田は微かに上向き、今度は下目使いに山本を
見る。疎らな顎鬚、更に似合わない口髭。口元を山本の親指が触れる。


 洗面台の上に腰かけ、目を瞑り、心持ち顎を上げる。シャボンの刷毛が顎を滑る。洗面
室は雨音さえ遠ざけ、山本の所作の一つ一つが音となって沢田の耳に届く。刷毛を置く音。
棚から出した剃刀の刃を出す。獄寺が丁寧に手入れをしている剃刀だ。曇りもないはずだ。
沢田は呼吸を整える。刃が顎に触れる。吸った息を、そのまま止め、待つ。
 洗面室が圧すような沈黙に満たされた。顎から刃が離れる。沢田は止めたままだった息
を深く吐く。そして目を開いた。山本が洗面台に両手をつき、項垂れていた。
「悪い」
 小さな声で山本が言った。顎を引き、見下ろすと、山本の顔は微かに青ざめていた。剃
刀を握り締めた手は、指の関節が白くなっていた。
「ツナ、悪い」
「いいよ」
「自分で顔、洗ってくれ」
 蹌踉たる足取りで山本は洗面室を出てゆく。先日の抗争でもあんな態度は見せなかった
男が、まるで病人のように壁にもたれながら出て行ったのだった。
 沢田は顔を洗った。冷たい水がしゃぼんの泡を洗い流す。顔を上げると水に濡れた視界
の中、鋼の色に光る剃刀がある。沢田はその刃を自分の袖で拭うと丁寧に閉じ、元通り棚
の中に仕舞った。


 夜半、獄寺が帰ったという報告があったが本人は顔を出さない。雨は尚、降り続いてい
るようだが、外は暗く、雨音さえなければただの闇夜のようでもあった。暖炉の火は弱く、
その前のソファにはリボーンがふんぞり返っている。いつの間にか部屋にいて、獄寺が帰
ったぞ、と一言報告した後、ソファに腰かけてからは一言も声をかけてこない。そういう
時間にも、結構慣れた。
 と、廊下が騒がしくなり、誰かが争っているようだ、と思ったが、その声が聞こえた瞬
間から、誰か、ではなく獄寺と山本だと沢田には分かる。レオンがソファの背に飛び移り
扉をぎょろりと睨む。争う声は、扉の前にくるとぴたりと止んだ。軽いノック。
「連れてきたぞ」
 山本が笑いながら腕でロックした獄寺を部屋に引きずり込む。獄寺の目はすぐに沢田を
捉えたが、それもまたすぐに伏せ、ぼそぼそとした声で、ただいま帰りましたとかいう意
味の言葉が聞こえた。
「揃ったな」
 リボーンが立ち上がり、沢田の前に歩み寄る。山本もそれに続き、ようやく山本の腕を
振り解いた獄寺もその端に並んだ。
「…何だ」
 沢田は三人を見上げ、不審そうに声を出す。リボーンはいつもと変わらず無表情な顔、
無表情な仕草で懐から一葉の葉書を取り出した。
「何人かの協力者の手を経て、ようやく着いた。お前のだ」
「俺?」
 受け取った沢田は一度軽く目を走らせ、がたり、と身体を揺らした。宛先は空欄だが、
その宛名にはしっかりと自分の名が書かれている。差出人の名を沢田は何度も指でなぞり、
リボーンを見上げた。
「本当に、これ」
「笹川京子本人からだ」
 リボーンは一言断言した。驚いた山本と獄寺が身を乗り出して沢田の手元を覗き込む。
しかし山本はすぐに眉間に皺を寄せた。それは沢田も同じで、困惑の皺を刻んでいる。二
人ともイタリア語会話はなんとか習得したものの、読み書きとなるとまだまだ子供だ。
「獄寺」
 リボーンが呼ぶ。獄寺が顔を上げると、リボーンが顎でしゃくった。獄寺はうろたえ、
沢田の顔を見る。沢田は葉書と獄寺の顔を交互に見ると、僅かに震える手で獄寺に葉書を
手渡した。
「読んでくれない」
 ふと沢田の顔に蘇った幼さに獄寺は胸を詰まらせる。
「…はい」
 深呼吸をし、短い文面に目を走らせる。
「私の…」
 声が掠れる。獄寺は空咳を二、三度してから読み直す。
「私の大切な人へ。ツナくん、お元気ですか? 怪我や病気をしていませんか。いつも電
話で尋ねていることだけど、やっぱり心配になります。
 中学生の時のことを覚えていますか。十年前、あの坂の下で、あなたの言った言葉を覚
えています。いつもあなたのことを考えています。いつもあなたのことを想います。
 春に旅行を予定しました。今度はイタリアの空の下で会いましょう。」
 結びは四つの文字。
 Baci。
「キスを」
 やおら、リボーンが沢田の腕を取り上げ、恭しく手の甲にキスをした。
 そして静かに部屋を去る。
 山本もゆっくりと沢田に近づくと、その頭に口付けを一つ落とし、部屋を去る。
 扉が閉まると、部屋には沢田と獄寺の二人だけが残された。暖炉は静かに燃えている。
雨音は聞こえない。二人はしばらく扉を見つめていたが、やがて獄寺が、所々青いインク
の滲んだその葉書を沢田に返した。
「何で、そんな泣きそうな顔してるんだよ」
 故意に明るい声で沢田が言った。しかしその沢田こそ目の縁が赤い。葉書を手に取り上
げては、どうすればよいのか分からず机に置く。
「ああ……」
 沢田は両手で顔を覆い、嘆息した。何度も目元を拭ったが流れ出す涙は止まらなかった。
「十代目」
 獄寺は沢田の横に跪いた。しつこく涙を拭おうとする手を自分の両手で包み込む。
「今は泣いちゃいましょう、十代目」
 獄寺も故意に明るい声で言った。
「もうすぐ、春ですよ」
 そして、無精髭のはえた沢田の顎に、ゆっくりと唇を押し付けた。
 どちらからともなく腕が伸び、隙間を埋めるように互いの身体を抱き締めた。沢田の涙
が獄寺の頬を濡らし、獄寺の荒れた手がしっかりとその魂を抱き締める。
「グラーッツェ」
 沢田の震える声が獄寺の耳に届いた。獄寺の手は沢田の魂を抱き締めたまま、自分の目
元を拭おうとはしなかった。











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