散る散る、満ちる/花





 ヨーグルトを食べ終えた後、バファリンを一錠飲んだ。
 今朝起きてみると、シーツに真っ赤な染みが広がっていた。笹川京子は朝一番に風呂場
でシーツと、汚れたショーツ、パジャマを洗った。周期はいつもカレンダーにつけている
が、いつもより四日も早い。染み抜きをしたそれらを洗濯機に放り込み、熱いシャワーを
浴びていると急に頭が痛くなった。いや、シーツを洗っているときから痛かったのだ。た
だ、あのときは一生懸命で気づかなかったそれだけ。鏡に映った顔は、自分でもはっとす
るほど暗かった。短く切った髪から湯がぽたぽたと滴り落ちて目に入る。京子は擦るよう
に顔を洗った。
 しばらくソファに横になる内、頭痛は引いたが、代わりに台頭し始めたのが下腹部の痛
みだ。大学在学中から、急に生理痛が酷くなった。救急箱にはもう一種類、痛み止めの粉
薬が常備してある。
 ヨーグルトを食べ、バファリンを一錠、ソファに深くもたれたまま指導予定表に目を通
す。駅前の英会話スクールがこの春からの京子の職場だ。
(だんだん、酷くなる…)
 京子は予定表を手放すと、再びソファに横になった。まるで身体が京子にわざと意地悪
をしているかのような痛みだった。あるいは京子は怨嗟の声ととった。折角、子供を作る
準備はできていたのに、また壊させるのね、赤ちゃんのための準備はできていたのよ、な
のに、また壊さなければならないのね…。京子は下腹に手をあて、目を瞑る。
 ねえ、あなたは誰の子供を迎え入れるつもりでいるの。


 先生が暗い顔をしている訳にはいかないし、暗い顔は本来京子の好むところではない。
夕方、仕事帰りのサラリーマンが続々とやってくる。皆が皆、本当の勉強熱心ばかりから
通ってくる訳ではないが、いざ担当を受け持つと、どの生徒も可愛い。年上の、父親にも
近い歳の男性を可愛いというのは、相手に悪いかもしれないけれど。
 下腹部は沈黙している。出かける前にもう一錠飲んだバファリンが効いたのか。午後十
一時二十分に最後の生徒を見送ると、再び痛みは再発した。
「だーいじょうぶ、です、か」
 ネイティブの教師が肩を叩く。京子は笑う。イギリスから留学してきたこのバイト教師
はイタリア語を受け持っている。そちらは外国語留学を狙う若い女性や、逆に定年を過ぎ
た人の趣味が多いそうだ。あとはにわかサッカーファン?
「そう、先生、」
 京子はゆっくりと発音を一つ一つ確かめるようにイタリア語を発した。若いバイト教師
は片眉を上げて見せると、続きを促す。京子はファイルから一枚の葉書を取り出す。
「見て、これ。何日か前、相談した、手紙です」
 ファイルの中にはイタリア語の手紙の書き方をごく簡単に説明したプリントのコピーが
挟まっている。短い文面に目を走らせたイギリス人は、それを返して、破顔した。
「いーんじゃ、ない?」
 京子はよかった、と笑う。葉書の文面は、私の大切な人へ、で始まっている。


 京子は帰ると真っ先にリビングの花瓶の水を替えた。真っ赤なバラがいけられている。
鼻歌を漏らしそうな機嫌のよさで京子は水を替えた。そしてソファに座らず、直接床の上
に腰を下ろして低いテーブルに頬をつけ、赤いバラを見上げた。先週、送られてきたもの
だ。量がとても多かったので半分はカーテンレールから吊るし、ドライフラワーにしてい
る。送り主の名はなかったが、イタリアから来たというだけで十分だ。
 葉書はそのお礼の手紙だった。先の電話からもう一ヶ月以上経つが、今月はまだ電話が
ない。
(私はツナくんの電話番号を知らないから…)
 そこで不意に顔を上げる。葉書を取り出して、京子は愕然とした。
(住所も…知らないんだ……)
 ツナは決して教えてくれなかった。電話番号も住所も。イタリアに行くんだと言って別
れた十代最後の春。以来、生理痛が酷い。バファリンが手放せない。
 急に下腹部が痛んだ。捩じれるような痛みだった。しかし京子が俯いたのは、そのせい
ではない。こぼれた涙が葉書の上で弾け、インクが滲む。涙の落ちたところから、ぽつぽ
つと青い花が咲く。
 どうして。女だから。狙われてしまうから。危険な目にあうから。京子ちゃんのいられ
るような世界じゃないんだ…って?
「私だって…」
 ツナくん、私だって、血くらい怖くないんだよ。女の方が強いときもあるんだよ。
 シーツを濡らした鮮やかな赤は、このバラよりも、生々しく、月に一度、京子を襲うの
だ。怨嗟にも似た痛みと共に。
「…いた…ぁ……」
 涙で滲むバラの赤。京子の手は葉書を握り締める。《私の大切な人へ ツナくん、お元
気ですか……
 ツナの名は青く滲んで京子の胸に抱き締められた。 










お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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