ライン・オーバー/安全装置





 覚醒はいつも身体の芯を掴む。冷たく凍てついた鉄の指のように。耳に触れる微かな物
音。鼻につく火薬の匂い。肌を微かによぎる人の気配。どれもが自分の生命の危機と直結
し、凍てついた鉄の指が身体の奥を抉るように、全神経にふれてまわる。起きろ!起きろ!
起きろ!死にたいのか、と。
 肺を病んでベッドに縛り付けられていたこの数週間も、それに変わりはなかった。廊下
を歩く人の気配、誰かが銃の手入れをする音、すっかり鼻に馴染んだパウダの匂いが掠め
るたびに眠りの沼から意識は急浮上する。今では浅瀬を僅かに漂うような睡眠しか取って
いない。医者は(あのスケコマシではない)よく寝て力を養え、と往診ごとの薬と共に小
言をくれるが、身体はもう自然と急激な覚醒に慣れてしまっている。
 なにも。と、薄暗くなり始めた天井を眺めながら獄寺は思う。なにも自分の命が惜しい
訳ではない。己が死するとすれば、それはやはり己の間抜けだ。病身の自分を誰一人庇わ
なかったとて責められることではない。しかし、彼のボスだけは。
 沢田だけは死なせてはならない。それが己の間抜けからなど言語道断だ。こんな身体で
も弾除けくらいにはなる。先週、ローマでモレッティが殺された。以来、このアジトとな
っているこのホテルも騒がしい。当の沢田の姿といえば、もう一週間以上見ていなかった。
 誰かが廊下を駆け抜ける。途端に神経が冴える。獄寺は耳を澄ます。カーテンも締め切
った暗い部屋の中で目をこらし、何が起きるのか、待つ。しかし音は足音一つ走っていっ
たっきり止んでしまい、徐々に圧し掛かる静寂に潰されるように、獄寺もまた眠りの浅瀬
の中を漂い始めた。


 何かが肌を撫でている。初め母の手だと思い、次に頭を撫でる父の手だと思った。そし
て二人とも別れて久しいことを思い出し、断片的な記憶が蘇る。頬を撫でる冷たい空気に、
ゆっくりと目覚めを誘われる。獄寺はゆるやかに瞼を持ち上げた。
 部屋は真っ暗だった。獄寺はベッドに横たわったまま天井を見上げた。暗くて、それが
天井かどうかも判然としない。肘をつき身体を起こすと、背骨や肩が軋む。妙な目覚めだ。
まるでまだ寝ぼけているようだ。ふらつく足で床を踏む。
 耳を澄ます。さっき自分の肌を撫でたもの。それはこの冬の空気だけではない。なにか、
音がした。クロゼットにかけられっぱなしだった上着を羽織る。ポケットにマイトが仕込
んであることを確認し、素足に靴を履いて、そっと外へ出る。
 廊下は点々と間隔を置いて弱い明かりが点いている。薄暗く、飾られた花も亡霊の陰の
ように佇むばかりだ。またなにかが獄寺の肌を撫でた。獄寺はゆっくりとその音のした方
向へ歩き出す。真っ直ぐ歩くと回廊に出、そこから吹き抜けの玄関ホールが見下ろせる。
獄寺は乱れた髪を後ろでくくる。手を戻し際、少し顎に触れると無精髭が伸びていた。
 ホールは完全に灯が落ちていた。玄関戸のガラスから長く月の光が伸びる。獄寺は目を
走らせる。すぐに見つけられた。彼はピアノの前に立っていた。拙い手つきで鍵盤を押し
ている。その音は確かにホールに反響し、自分の耳にも届いたのに、まるでホテルは無人
のように、彼らのほか誰一人起き出さず、死んだような暗闇と沈黙を保っていた。
 獄寺は急きながら階段を降りる。五階分を転びかけながら一気に降り、ホールに立った
とき、その姿はなお一層はっきりと獄寺の目の前に佇んだ。
「十代目…」
 沢田は無言のまま霞のような微笑を浮かべた。久しぶりに会ったことを喜ぶでなく、病
身をいたわるでなく、ただ薄い微笑を浮かべて、そっとピアノの前から離れた。
「きみの…ピアノだ」
「…はい」
「弾いてくれるか」
 そして背を向けた。獄寺は躊躇いなくそれに頷き、椅子を引き、命令どおりピアノの前
に座る。ショパン。ノクターン・イン・Cシャープ・マイナー。指は数週間の鈍りを微塵
も感じさせず、別の生き物のように鍵盤を滑る。獄寺は目を瞑る。指ばかりは勝手に動き、
獄寺は沢田の気配を探す。
 硝煙の匂いがした。沢田の身体からは確かに硝煙と、血の匂いが漂っていた。
 急に指が動かなくなった。沢田は獄寺と背中あわせに立っている。微かに、やめるな、
という声が聞こえた。しかし獄寺の指は動かない。
「やめるな」
 その沢田の言葉一つ重なるごとに動かなくなる。重く、だらりと垂れる指の質量ばかり
を感じる。やめるな。やめるな。獄寺の頭も叫ぶ。弾け、弾き続けろ、十代目の命令だ。
しかし沢田の声の一つ一つが獄寺の魂を重く麻痺させる。
 不意に、それは動いた。ガラスを叩き割るように唐突に獄寺の背中に突き刺さった。沢
田の指は強く強く獄寺の背中にすがりついた。
「獄寺くん…」
 こんな声音を知らない。十年前、出会ったばかりのころ、沢田は獄寺を恐れた。イタリ
アへ来てからは完全に獄寺のボスだった。学生の頃は彼の泣き顔、呆れ顔、これでもかと
いうほど見てきた。いい思い出だ。ボスとなってからはいよいよ尊敬の念が募る。
「十代…」
「獄寺くん…!」
 振り向いてはならない。背中にすがりついているのは彼のボスではない。このような姿
は忘れなければならない。こんな弱さを部下に見せてはならない。獄寺はすぐさまたった
今のこの出来事を忘れ、明日の朝には沢田の足元に跪かねばならない。
 たとえどれだけ縋る指が強かろうと。上着が彼の涙に濡れていようと…。
 獄寺はその名を呼ばなかった。また沢田も声を上げなかった。沢田は抱きすくめられる
まま獄寺の腕の中にその身を委ね、荒々しい口付けに目を閉じた。獄寺もまた目を閉じた。
頬に沢田の指が触れた。獄寺を目覚めさせたように、その肌を撫でた。
 そしてまた同じ瞬間に獄寺の身体の芯を鉄の爪で抉るように、例の声が怒鳴り散らした
のだった。忘れろ!忘れろ!そして今すぐに手を離せ!
 服を越して銃の感触が分かる。獄寺は手を伸ばし、沢田の懐から銃を取り出す。それを
頬に優しく触れる手に添わせる。
「十代目…」
 僅かに離れた唇の隙間から囁く。
「撃ってくださ…」
 みなまで言わぬうちに、沢田の唇が塞ぐ。
「…十代目っ」
「獄寺くん」
 沢田は獄寺の目尻から溢れるものを、銃を持った指先で拭い、囁く。
「言っただろ。怖くなんかないんだ」
 目尻から一筋微かに光る沢田の頬。鈍く光る銃。神経を抉る声、撃て!お前の頭を撃ち
抜け!安全装置は外されている。
 正面の扉から長く伸びる月光が翳る。雲の影がいくつも流れ、沢田の顔が隠れ、獄寺の
顔が隠れ、銃の鈍い光が消え、やがてホールは闇に落ちた。











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