アッディーオ/あの日あの時あの場所で





 行けよローマへ、夜の明ける前に。
 どうやらこれが最近の曲らしくて、モレッティさえこの歌を唄っているから、よっぽど
流行っているものと思われた。沢田は低くこもった歌声で、まずその存在を知った。テレ
ビなどで見たのは、その後だった。モレッティは口の中でもそもそと唄う。その歌声が静
かすぎる屋敷に綿毛のように途切れ途切れに飛んできた。沢田は自分の身体にはまだ大き
い、その豪奢な椅子から腰を上げた。リボーンが取引を終えてローマから戻ってくるのは
夕方だ。それまでおとなしく部屋に居た方が懸命と思ったが、モレッティがボンゴレのこ
の屋敷にいるのは珍しい。ソファに寝転がっていた山本が、娼婦の格付け表から顔を上げ
た。沢田が部屋を出ると、黙ってついてきた。手が無意識のうちに腰に触れ、銃を確認し
ていた。
 モレッティは玄関脇の粗末な丸椅子に腰かけ、午後の日の光を浴びていた。顔色は相変
わらずよくない。目もぼんやりと遠くを眺める様が死体然としているが、唇が微かに動い
ている。
 行けよローマへ、日の昇る前に。
 名を呼ぶと、ようやく焦点の合った目でこちらを向いた。廊下の暗がりに、すぐには順
応できなかったようだが、沢田がいると分かると相好を崩し、椅子から立って頭を下げる。
いいよ、と言いながら近づいた沢田が玄関から差し込む日に足を踏み入れる一歩手前で、
山本の腕が引きとめた。
 モレッティは沢田に椅子を譲ると、床に腰を下ろした。山本が玄関の外に立ち、扉を閉
める。ステンドグラスから落ちる柔らかな暖色の光がモレッティの上に落ちた。沢田は暖
まった椅子に腰掛け、久しぶりだね、とありきたりな挨拶をした。
 話はぼつぼつとしたものだった。話題はもっぱら夕方に帰ってくるリボーンのことに集
中した。話が切れると、モレッティはちょっとズボンの裾を上げてみせた。珍妙な柄の靴
下が柔らかな光の下に現れた。見た瞬間、沢田は吹き出し、大笑いをした。モレッティも
笑っている。自分の趣味が珍妙なことは自覚しているらしい。
 なぜ、仮死状態になれる特異体質を得たのか、そのことを「ないしょですよ」と小さく
もそもそとした声で話してくれた。それはモレッティの過去の物語だった。モレッティが
語り終えると、沢田はモレッティに向かって右手を伸ばした。
「オレのファミリーにいてくれて、よかったよ」
「グラーッツェ、ボス」
 モレッティは軽く握手をしたかと思うと、両手で沢田の手をいただき甲に口付けをした。
 行けよローマへ、遠路はるばる。
 モレッティは口の中でもそもそと唄った。沢田は曖昧なイタリア語であわせて口ずさみ
ながら、モレッティのこけた頬や、硬そうな黒髪を眺めた。ゲジゲジしたもみあげがルパ
ン三世に似ていると思った。小さな日向の中で、光を吸ったニット帽が暖かそうだった。
沢田はモレッティの口付けした手を、そっともう片手で抱くように覆い、モレッティの唄
う流行歌に耳を傾けた。


 リボーンと入れ替わりにローマへ向かったモレッティが殺されたと連絡が入ったのは早
朝だった。すぐさま山本がローマへ飛んだ。感情的にスーツを身にまとった沢田を、リボ
ーンは部屋から出さなかった。寒い朝だった。リボーンは暖炉に火を入れた。
「昨日は…あんなに暖かかったんだぜ」
 ようやく沢田が呟いた。手の甲を、もう片手が抱くように覆った。リボーンは沢田をソ
ファに座らせると、その肩を抱いた。その手は冷たかった。部屋もすぐには温もらなかっ
た。沢田は目を瞑った。手の甲を抱いて、昨日の温もりを取り戻すかのように目を瞑った。


 そのころ、メーターを振り切るほど飛ばす車の中で山本が、流行歌を歌い始めたカース
テレオを怒り任せに撃ち壊していた。










お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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