今現在立入禁止区域/絶対命令





 血痕を、残している。
 鏡の前に立った獄寺は眩暈に似た感覚に襲われた。洗面台の薄明かりに照らされて、最
近こけてきた頬の上に、僅かに涙型に流れた血痕が一つ。蛇口を捻り、勢いよく水を出す。
指先を濡らしその部分を撫でると、赤い色が滲んだ。まだ生乾きだ。
 背後からは低い音でラジオが流れている。ジングル代わりのジャズがノイズに混じりな
がら部屋の空気を微かに震わせている。獄寺はそれを思わず袖口で拭おうとして思いとど
まり、掌の、手首に近い付け根の部分で強く擦った。その手を冷たい激流に浸し清めると、
無造作に蛇口を閉めた。濡れた手で顔を拭う。目をしばたかせると、乾いたような疲労の
痛みが走った。もう一度、瞼の上を冷たい掌で拭い、目を瞑ったまま洗面台の明かりを消
した。
 沢田は部屋の真ん中に所在無く立ち尽くしていた。狭い部屋だ。ベッドと冷蔵庫とラジ
オの受信機。あとはテレビも、空調も、テーブルや椅子といった基本的な家具さえない。
窓には暗い色のカーテンがかかっていたが、今は開かれている。階下の街灯の光が雨に濡
れた路面に反射して明かりをつけていない部屋はものの輪郭を知る程度には光を得ていた。
沢田の横顔は静かだが、目元が疲れに皺を寄せている。ジャズの音色も聞こえているのか
分からない。
 十代目、という声が出かかって、何のために呼ぶのか分からないのに気づく。すんでの
ところでそれを飲み込んだ獄寺はクローゼットを開けると、暗い色のコートを取り出した。
沢田にはまだ大きい筈だが、それくらいで十分だろう。
 こんどこそ小声で十代目、と呼んだ。沢田はゆっくりと振り向く。十年前はこう呼ぶだ
けで肩を震わせていたあの人が。沢田の目はまっすぐ獄寺を捕らえ、なに、と尋ねた。
「これを着てください」
 獄寺は手にしたコートを沢田の肩にかけた。
「あいつらはオレが引きつけます。大丈夫です、リボーンさんとの合流地点はすぐそこで
すから……」
 すると沢田の鼻先から笑うような息が漏れた。
「無責任だな…」
「…なんです?」
「オレを護りたいなら、オレを死なせたくないならさ…、ならオレを確実にリボーンのと
ころに送り届けろよ」
 柔らかい指がコートにかかったままの獄寺の手に触れた。
「独りじゃ逃げられない」
「わがまま言わないでください」
「オレを護れって命令してるんだ」
「護ります、命に代えても」
 指が獄寺の手を掴む。沢田の目は窓の外を眺めたままだ。獄寺はコートをかけた自分の
手を掴む白い指を見ていた。
「オレだって」
 沢田の指はしっとりと湿っている。生温かく獄寺を揺さぶる。
「…オレだって、返り血を浴びるくらい、怖くないよ」
「ええ…、十代目ですから」
 ふと、眩暈のような。視界が揺れる。ジャズが消える。今晩の放送は以上です。明朝、
再び皆様とお会いできますことを、チャオチャオ……。沈黙した受信機。青白く光る周波
数のデジタル表示。それが尾を引いて揺れると、暗い色のコートがひるがえる。獄寺の胸
を掴む柔らかい指。
「怖くなんか、ないからな」
 沢田の目は水に濡れた獄寺の頬を見ている。
「怖くなんか…ないんだ」
 柔らかな指が濡れた頬に触れた。獄寺がそれを押しのけるように手で制すと、柔らかな
指はその手に絡みついた。鉄の殺傷器具とマイトばかりを扱う硬く荒れた手に、指は包み
込むように添う。
 片腕で沢田の身体を抱いた。流石にその腕の内に全て抱きこめるほど細くはない。心臓
の真裏に掌を当て、自分の胸に押し当てるように獄寺は沢田を抱いた。
「十代目…」
 沢田が胸の中で息をつく。微かに熱を孕んだ息が。
「わがままは…いけませんよ」
 リボーンさんに怒られます、と囁く。沢田は聞こえないふりでもするように、答えなか
った。抱き締められるままに頬を獄寺の胸に押し付け、目が遠くを眺めた。
 視界の端でラジオ受信機の周波数表示が瞬きをしながら消えた。青白い残像が闇に吸い
込まれる。足音は聞こえないがもうすぐこの部屋まで上ってくるだろう。獄寺はそっと沢
田を見下ろす。
「…血の匂いがするでしょう」
「と、ニトロ?」
「さあ…、帰ったら教えます」
 獄寺は優しく両手で沢田の身体を突き飛ばした。ドアを振り返りマイトを取り出す獄寺
の視界の端で暗い色のコートがひるがえった。それが完全に消え去ると、獄寺は面相も険
しく目をそばめた。ドアノブの向こうに何かがいる。それを回すのか。それとも早速マシ
ンガンで蜂の巣か。
 目の前を一瞬ジッポの炎が過ぎる。煙草の熱。ニコチンが勢いよく全身を巡る。両手一
杯に火花が爆ぜた。
「…果てろ」
 閃光の中で獄寺は嗤った。










お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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