ショパン・リサイタル/ダ・カーポ





 血の味がとれない。舌の上にべったりと貼りついて。上から指で口を押さえられでもし
ているかのように。せり上がる衝動に任せるように指を鍵盤に叩きつける。荒々しいショ
パンが、これを上品だとか優雅だとか有り体の言葉を破壊し尽くすように、オレの、耳に
叩きつけられる。オレの、ために叩きつける。血の味を忘れたくて。
 と、獄寺の指は熱と痺れに浮かされながら鍵盤の上を狂った踊り子のように叩き続ける。
それが足ならば赤い靴でも履いているかのように。この演奏を止めるためには指を切り落
とさねばならない。ノクターン・イン・Cマイナーは彼の手から放たれたダイナマイトの
ように床に叩きつけられ、壁にぶつかり、天上のシャンデリアを弾き飛ばす。
 だって血の味が。鼻にさえ漂う。いつもの嗅ぎ慣れた火薬の匂いではなく、硝煙の匂い
でもなく。否、別に人の血の匂いだからとて不審がることも、厭うこともないのだ。硝煙
の匂いに血の匂いはつきものだったではないか。でもこの味は、違う。だって。
 こんなにも耳慣れたピアノの音、と思っていた。まさか、何故自分は忘れていたのだろ
う。まともなピアノなど、自分は奏でた試しはないのだ。姉の指が作り出すものがことご
とく狂った食事であるように、自分の演奏が異常だったのはその毒性の餌食になったから
ではなく、狂った指の遺伝子であったならば。
 夜想曲は六分のうちには曲の終わりを迎える。このテンポで弾けば五分、か。まだ五分
だと、血の味は舌の根にまで染みてきたというのに、この曲はもう終わってしまう。では?
バラード・ナンバー1・イン・Gマイナー、楽譜が、クソッ、ない。暗譜している範囲で
いい。否、多分全て弾ききれる筈だ。覚えている。バラード・ナンバー2・イン・Fメジ
ャー、血流のように身体の底を流れている。爆発の振動と、震えと一緒で、身体に染みつ
いてその音色を奏で続けている。オレの耳はいつだってこれを聞いている。流れているこ
とさえ気づかぬ程、それは夏の空の下、銃撃の雨の下、夜の闇の下、山本に組み伏せられ
た昨日の…。
 曲が終わる。何か、何か、オレをもっと狂わせる音を。オレの中には何が流れている?
殴った山本の唇の端から流れていた血の味を、自分は舌先さえ触れもしなかったこの架空
の味を忘れさせる、ヨカナーンの口付けのような苦い味を忘れさせる、グランデ・ポロネ
ーズ・ブリランテ・プレシデッド・バイ・アン・アンダンテ・スピアーノ、オーパス22、
そうだこれで殺してしまえ、この音で舌さえも切り落とせ、舐めもしなかった血の味に惑
わされるような舌なら。どこもかしこも狂っているなら、バラバラに切り落としてやれ。
打つのは鍵盤か、この指はハンマーじゃないのか、ワイヤーを震わせているのはこの指じ
ゃないのか、畜生、切れた血の味が。
「獄寺くん」


 何ということだろう。何てことだ。獄寺はぴたりと止まった自分の指を見詰め、顔を上
げた。夜闇に輪郭を溶かした部屋は、窓の外の仄かな明かりで辛うじてその形を保ってい
る。獄寺は入り口に佇む小柄な影を凝視した。
 全ての音が消え去った。今しがた、たった数瞬前まで弾いていた余韻も残らない。それ
どころか血流の底に一緒に流れていたはずの音楽が、血が静まり返り、沈黙している。目
の前のグランドピアノまで、化石のように冷たく鎮座していた。
「凄いリサイタルだね」
「十代目…」
 その名を呼んだ舌が、酷く乾いているのに気づいた。血の味なんか…。
「…十代目……」
 左腕がまるで丸太でもぶら下げるようにだらりと落ちる。感覚もない。右手が死体のよ
うに鍵盤の上に横たえられたまま痺れる。
「ああ…」
 沢田は獄寺に近づくと、小さな声を上げた。
「煙草…」
 短くなった煙草が床の上に小さな焦げつきを残し、終えている。沢田の手が一瞬恐れる
ように獄寺の膝に触れた。スーツが焦げていた。
「…平気です」
 何とか笑ってみせる。沢田の前ならば獄寺は笑うことができる。笑顔を作ることができ
る。パブロフの犬の反射のように。沢田の存在は獄寺の笑みの神経と繋がっている。笑み
の神経、それだけ? 全てを支配している。全ての神経が沢田に繋がっている。血さえ沈
黙する。沢田がいるから。心臓さえ。沢田に握られているから、自分の鼓動さえも聞こえ
ない。
 鍵盤の上に沢田が指を置いた。低いAの音が一音、余韻を長く引いて響く。音は一音ず
つ高くなった。人差し指と中指がゆっくりと鍵盤の上を歩く。獄寺の呼吸は止まっていた。
沢田の指は獄寺の右手に触れて止まった。長い長い余韻が煙草の煙のようにいつまでも漂
う。
「ゆっくり」
 沢田は低い声で言った。
「ゆっくり弾いてくれ」
 指が離れる。その白い軌跡が楽譜のように獄寺には見える。指先が微かに痙攣する。
 沢田は窓辺の椅子に座った。獄寺は両手をゆっくりと鍵盤の上に置く。もう一度最初か
ら、ゆっくりと。再び血が流れ出す。沢田のために。ノクターン・イン・Cマイナー、オ
ーパス48、ナンバーワン。最初から、ゆっくりと。
 沢田が小さな声で尋ねた。
「どうして…泣いてるんだ」










お題配布元→10年後捏造で23のお題**

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