雷雨の先触れさっきまで覚えていた悲しみを忘れてしまった! 絶望さえない。涙も出ない。何せ忘れてしまったのだから。ビアンキは紫色の顔をした死体を見下ろして、そして行くあてのないように左右を見回した。それから携帯電話を取り出し、開いて、閉じた。歩き出し、立ち止まろうとし、結局立ち止まれず歩き出した。 どこまでも歩いた。ビアンキは忘れてしまったのだ。悲しみと一緒に。欲しかったものや、覚えておきたかったあたたかいものや、好きなものや、甘い匂いや。だから、モレッティが腕を引いても、ハッとなどしなかった。死ぬことさえ忘れたかのように、彼女の目はガラス玉だったし、彼女の手は体温がなかったし、彼女の息はあたたかくなどなかったのだ。 「ビアンキ」 この男が呼び捨てるように名前を呼ぶのを、ビアンキはおそらく何年ぶりに聞いた。 「帰ろう」 彼女は首を振った。しかし、それを断ってどこへ行くのだろう。街はもう外れだった。意味も無く長く伸びる塀が続くばかりの、行き先のない道だった。どこへ行くのだろう。彼女は。 リボーンの消えたこの世界の、どこへ行こうと言うのだろう。 モレッティの手が不意に伸びて、耳の後ろに触れた。その時初めて彼女はこの世界に違和を感じ、その手を振り払うように後ずさった。そして急に自分が生きていることや、ここが街の外れであることや、もう夜明けも近い空の色や、モレッティが握り締めているくしゃくしゃの包みなどに気づいた。 パフュームの小さな壜を彼は握っていた。彼女は耳の後ろに触れたのがその一滴であることに、香りに、ようやく気づいた。甘い香りだった。不必要なほど、過ぎるほどに甘く感じた。しかし、ビアンキにはそれが今、人間の香りに思えた。私の側で生きるものの匂い。 「ビアンキ」 今度は優しく、彼は呼んだ。ビアンキは頷いた。近くに停められていた車に二人は乗り込み、そしてすぐさまその街を離れた。 高速に入るための十字路で一旦停止した、その一瞬、彼女は運転席のモレッティにすがるようにその身体を近づけた。胸元を握り締め、目を伏せて、鼻先を彼の首筋に近づけた。常に死体然としている彼の微かな体臭と、パフュームの甘い香りと、そして自分の髪の匂いとが、僅かに鼻腔に残った腐臭を掻き消した。 「モレッティ」 彼女は呼んだ。車が動き出した。彼女は手を解き、そして助手席で眠りについた。 一週間ぶりの眠りだった。 君は日本に行くんだ、とモレッティは囁いた。 「あの場所には何かがある。あの場所ならばきっと糸口が見つかる。それに十代目とリボーンさんの作った基地もある。安全に、彼らの帰りを待っていられる」 「あなたは」 フロントガラスを雨粒が叩き始めた。 「搭乗口まで護衛させてくれ」 二人が飛行場の建物に入ると一気に雨脚は強くなった。モレッティの用意したチケットの分は何とか飛ぶらしい。 「後はもう飛べない。雷雨になるそうだよ」 「そんな匂いがするわ」 ベンチに腰掛け、そう、短い会話を交わした。 分かれる間際、またモレッティが耳の後ろに触れた。パフュームの香り。包みも解かれた裸の小瓶をそっと手に握らせられる。ビアンキは相手のシャツを掴み、胸元に、クルスの上に口付けた。鉄の匂いと血の匂いが鼻を掠める。ビアンキは小瓶の蓋を開け、モレッティを抱き締めた。 2007.6.21 掲示板にて/2008.3.5 加筆 原作における十年後の妄想 |