生者の祝福する日、二景




そのいち。

 ベッドの上で目覚めた。モレッティはそれが珍しいことのように、しばらく動けない。シーツと毛布の上に落ちる冷たい空気。頭がすっかり冷えてしまっている。手が帽子を探すが、触らない。冬の冷気の中では、この手もまるで体温を持った、本物の生きた人間のようで(勿論、いきてはいる。が、彼の職業が職業だ)何となく、神に感謝したくなり、胸のクルスに触った。
 携帯電話にはボンゴレ十代目からのメールが届いていた。返信をメールでするには失礼だったので、朝早いが電話をかける。十代目は起きていた。向こうから、それに便乗する何人かの声が聞こえた。
 朝食を済ます前に仕事の連絡が入った。顔色の悪さは、彼の仕事には適している。やかんの火を落とし、そのまま出かける。日暮れまで帰れないだろうと思った。モレッティはカーテンに手をかけ、しかしそれをそのままにして出た。窓の外には二月の、古い街並みがあった。すぐ目の前には運河。向かいのアパートの窓から、老女が身を乗り出し洗濯物を干していた。寒いが、風は穏やかだった。屋根の上の狭い日向に、猫が寝そべっている。彼はそれを目に焼き付けて、胸の底にそっと仕舞った。
 到着した廃屋は冷たく、湿っていた。汚水の中に横たわり、死ぬ。死者の頭に去来するものはない。死んでいる間、必要なものは観察力、対応するための判断力。機械のように死に、機械のように機能させる。瞬きをしない目に映る、幾つもの足。重たそうな鞄と銃の遣り取り。
 黒い足たちが立ち去り、車の走り去る音が聞こえても、死体は起きあがらない。日が暮れ、自分の身体も気配もすっかり夜闇に溶けてしまってから、ようやく目蓋が重たい瞬きをした。
 立ち上がった彼は、汚水まみれで、動きもぎこちないが、顔が微かに笑っている。ここに帰ってきたことを喜ぶように、モレッティは少し微笑んで、すっかり使い物にならなくなった服のまま、帰路につく。
 泥だらけの服をバスルームに放り込み、熱いシャワーで身体を流していると呼び鈴が鳴り、裸のまま飛び出す。配達人はオレガノで、少し驚くが、モレッティのまとわりつかせた湯気が眼鏡を曇らせたため、それ以上動揺せずに済む。贈り物はワインだった。
「甘いのはお好きですか?」
 まだ取れない汚水の匂いを全く気にしない笑顔で、オレガノは尋ねる。
 木箱に収まったそれをテーブルの上に。急に所在なくなったモレッティはタオルで頭を拭きながら部屋をうろうろと彷徨う。
 電話が鳴った。
 受話器をそっと持ち上げる。冷たい。
「モレッティ」
 冷たい吐息が耳に吹き込まれる。
「今日は仕事だって聞いたわ」
「さっき、戻ってきたんです」
「そう」
 アパートの屋根屋根に遮られた細い月光が床に落ちる。その清かな光に照らされ、モレッティは自分の声が白い湯気になるのを見た。
「あなたは?」
「仕事よ。ミラノ」
 少し沈黙を挟み、細く、その声は呟いた。
「雪が降ってるわ」
 窓の外は、明かりの落ちたアパートの壁面。月の光が細くなる。
「…ビアンキ」
「誕生日おめでとう」
 電話は唐突に切れた。
 モレッティはワインを開けるのを待つことにした。その夜は、匂いのしない水だけを飲んで、音楽も聴かず、ベッドに横になった。彼女の声を思い出した。
 携帯電話が軽い音を立てる。メールが届いた。彼は飛び起き、メールを開く。ドクター・シャマルからのメールだった。どうせいいワインでもいただいたんだろうから、ご相伴にあずからせろとあった。モレッティは苦笑しつつ、起きだし、医者の到着を待った。


そのに。

 自分の盛大なくしゃみで目が覚めた。まさか、自分がこんなに大きなくしゃみをするとは思っても見なかった。モレッティは自分に驚きながら目を覚ました。鼻水が出ていた。
 クリネックスに手を伸ばそうとして、全く別のものに手を触れ、それは何だか乱雑な音を立てて崩れ落ちる。多分…、と寝ぼけながらモレッティは思う。空のボトルとグラスと皿とフォークとチキンの骨とピザの食べかすだろう。
 ソファの上では寄り添うように十代目とその右腕と肩甲骨が眠っていて、足下の床には酔いどれた医者が倒れている。凄腕ヒットマンの姿はない。彼が酔って醜態をさらしたことは、一度もない。モレッティは酔いで重たい頭で何とかあちこちの上着だのを掻き集め、酔いつぶれた男達の上にかけてやる。
 かく言う自分はベッドに向かうが、今夜は誕生日で、ここは彼の部屋であり、彼は主賓で主だ。誰にも文句は言わせない。
 ベッドの上には先客がいた。髪の長い、美しい顔の女が、毛布にくるまって丸くなっていた。
 モレッティはしばらく戸口に佇み、女の寝顔を見つめていた。女は美しかった。その顔はあどけなく、眠る唇は微笑みを含んでいた。
 彼は足音を忍ばせて、彼女の枕元に跪く。そうだ。今宵、両腕に余るほどのご馳走を手に手に、この面々を連れてきたのは彼女だった。モレッティが一度も開いたことのない誕生日パーティーを彼女は無理矢理開いた。
「勘違いしないでよ」
 彼女は怒ったように言った。
「あなたが誕生日だとか言うからいけないのよ」
 その通りだ。
 しかし酔いの回った頭で彼女を女神だとあがめることが罪とは思えなかったので、モレッティは心ゆくまで彼女の寝顔を見つめ、彼女に祈り、彼女に感謝した。ビアンキ、とその美しい名を囁くことさえ畏れおおいと慎みながら。
 リビングに戻ると、かけられたもののぬくもりに安堵したのか、かすかないびきの合唱が聞こえてくる。モレッティはストーヴの火を熾した。気の抜けた顔が赤く染まる。足下では医者が、寒い寒いと寝言を呟きながら震えている。モレッティは自分が羽織っていたものを医者にかぶせ、自分は椅子に深く腰掛けた。
 たくさんの生きた人の気配、人の寝息、人の体温に囲まれて、モレッティは軽く俯き、目を伏せる。頬に微笑が浮かぶようで、彼は膝を抱えることで、その顔を隠した。





2009.2.20 一日遅れ。