彼はくじいた足を引きずって医者に行った酷く不機嫌なヒットマンに殺されかけ命からがら逃げ出したシャマルの行く先は、正直なところ途方に暮れていたのだが、消去法で工作員のヤサとなった。 ピンで鍵を壊し、中に入る。シャワーの音と、部屋に充満する血の匂い。放り捨てられた女物のバッグ。金属製のエンブレムが取れかかっている。シャマルは面白くなく煙草に火をつける。さて工作員本人がいなくても、ここは彼女の避難場所となった訳だ。 ヒットマンは三番目の愛人に追われ、逃げるようにシャマルの元を訪れた。そのまま何かに強引に持ち込もうとしたところをシャマルは逃げ出し、シャマルの逃げ出した先にはヒットマンに愛をぶつけ損なった女が怒りと慰めとでこの部屋を先に占拠している。 ビアンキはいい女だ。胸の中で呟く。ベッドを共にしたことはない。本当にない。ビアンキがさせない。しかしいい女であることをシャマルは誰よりよく承知している。リボーンより、この部屋の主であり、今にも彼女の新しい恋人の座につこうとしている男より。ずっと。 テーブルの上に煙草を押し付ける。殺され屋稼業のくせにいっちょ前に趣味なんぞこさえやがって。何が日曜大工だ。盛大に煙を吐き出すと、シャワールームの扉が開いた。 「…何してるんですか」 顔面を酷く腫らしたモレッティがずぶ濡れのまま、呆れた表情でこちらを見ているのが煙草の煙ごしに見えた。シャマルはしばらく煙を吐き出したまま口を開けていたが、不意に目の前の煙を吹き払って口を噤んだ。 「あんた…、ちょっと先生、その煙草」 「別にオークって訳でもねえだろうが」 「あのねえ、自分で作ったんですから。我が子も同然なんですから」 しかしこれ以上何を言っても無駄だと解っているようで、文句はそこで途切れた。溜息をつき、濡れた頭をタオルで拭う。 「で、何か御用で?」 クロゼットに頭を突っ込みながらモレッティが尋ねる。 「ビアンキは」 「え?」 「来たんだろうが」 「…私は今、帰ってきたばかりですが」 シャマルは、すん、と鼻を鳴らす。 「私の血ですよ。見りゃあ解るでしょう」 バッグを持ち上げる。 「残念ながら私のです」 「はあ?」 モレッティは小指を唇の上に滑らせる。口の端に滲んだ血がルージュの代わりに彩る。シャマルは心底げんなりした。もう立っている気もしなかった。手近な椅子に腰かける。 「危ない!」 その警告は遅かった。遅すぎると言っても良かった。その声が届いたのはシャマルが一瞬の無重力的感覚と、0コンマ秒の自由落下を味わった後だった。木片を下敷きに酷い音を立てて尻餅をついた後で痛みは遅れて訪れる。 「ひでえ趣味だ!」 シャマルは叫んだ。 「作りかけなんですよ」 「ああ、作る前に戻してやったぜ、感謝しろ!」 「すいません」 立ち上がろうとすると、酷く足首が痛む。彼は盛大に舌打ちを鳴らし、また煙草を取り出す。 「糞ったれめ!」 「いや…悪かったです。まさか人が来るとは思わず」 「ビアンキは」 「彼女は私の作った椅子になんかは座りませんから。と言うか、ビアンキ?」 「本当に来てねえのか」 「そんな…しょっちゅう来る訳じゃありませんよ、彼女は。最近は会う機会も増えましたがね、専らリボーンさんを追いかけてますから」 「………」 煙草の煙を肺まで吸い込むと幾分落ち着きが生まれた。シャマルは目の前の男がパンツ一丁でしゃがみこんでいることにようやく気づく。 「気持ちの悪いもん見せるんじゃねえ」 「しょうがありませんよ、仕事だったんですから」 「服着ろ」 「不運なオカマの娼婦という、不運な役回りでして」 言いながらモレッティは立ち上がり、見慣れた服を引っ張り出す。シャツは黄色だった。ズボンを穿きベルトを締めると、ようやく人心地ついたというように頑丈そうな椅子に腰かけた。 「全く、酷い星だ。酷い方法で人が死ぬ。人が人を酷い方法で殺そうとする」 「何だよ、その語りは」 「実際こういう風に人が死んだと思うと…」 遣り切れなくてですね、と口の中で小さく呟きモレッティは背もたれにもたれかかる。 「ねえ、先生」 「その呼び方はやめろ」 シャマルは俯き、肺から煙を吐き出す。煙はぞろぞろと床を這う。モレッティが遠めに眺めながら、では?と尋ねる。 「シャマル?」 「いつも通りでいいだろうが」 「ドクターですか。先生とも変わりはしませんよ」 「じゃあドクターでいいだろうよ」 「ではドクター」 「湿っぽいお喋りは他所でやれ」 「いや、我々ね、これからどうしましょう」 顔を上げると、顔をしかめたモレッティが天井を向いている。 「私ぁ、正直ドクターの治療を期待してたんですが」 「何度も言ってるだろうが、いい加減覚えろ」 男は診ねえ。 二人の声は見事に重なる。シャマルは不快そうに顔を歪める。モレッティは傷が痛むのか半笑いになっている。 「知っちゃあいますが」 シャマルは不承不承モレッティの肩を借り、モレッティの車に乗り込んだ。取り敢えず美人の女医のいる外科に向かうことにする。 「でも、そこに行けばすぐにリボーンさんに見つかるでしょう」 「リボーンがどうした?」 「何で、逃げるんです?」 別に逃げてねえ、と不承不承の助手席で呟く。 「リボーンさんはビアンキに追いかけられた腹いせにあんたを半殺しにしようだなんてしませんよ」 その言葉に、弾が掠っただけの脇腹がじくりと痛み始める。 「慰めるとか、ほんの人間的なことでいいのに」 「人間的、な」 「リボーンさんも人の子ですよ。取り上げたドクターが一番御存知でしょうに」 「昔のことだ」 忘れたさ。それは舌に乗せず呟いた。 そろそろ着きますよ、とモレッティがブレーキを踏む。車は玄関脇に静かに横付けされた。こいつは運転が上手いな、とシャマルは今更に気づいた。 モレッティは先に車を降り、助手席のドアを開ける。外は雨が降り出していた。暗い空を背に辻の街灯が灯る。モレッティは覆いかぶさるように助手席を覗き込んだ。 「一つ寄付しましょうか?」 「何?」 「慰めのキス」 シャマルの顔はみるみる歪む。これ以上ないくらいの嫌悪の表情を浮かべて彼は吐き捨てた。 「お前は俺を殺す気か」 「人間的な思いやりのつもりだったんですが、いらぬ世話でしたか」 その瞬間、ビアンキがこの男にとられたことをシャマルは本気で憎み、出来ればモスキートではなくナイフを以ってこの手でざっくりと相手の心臓を止めてやりたい凶暴な衝動に駆られたが、何せ足首は地に触れることも出来ないほど腫れ上がり痛んでいたので、実に実に不本意ながらモレッティの肩を借りる意外、美人の女医の元へは辿りつけないのだった。 以来、モレッティの部屋では椅子に座らない。 ぼんじょるの!さんにリンク報告いただいた記念。 こちらのモレとシャマをイメージしながら書いたけれど見事暴発。 |