孤独の捕食者




 俺、今でも獄寺くんが俺を殺そうとした日のこと忘れらんない、と沢田が言ったので、山本はちょっと驚いて手の中の書類を捲るのを止めたが、
「そんなことあったっけ」
 と何気ない風に言って書類をぺらぺらと最後まで捲り、机の上に置いた。沢田は居眠りから目覚めたばかりのぼんやりとした目で、うん、と小さく返事をした。
「転校初日」
「あー、俺、あんまり覚えてねーわ」
「後でリボーンから聞いたんだけど、その前から俺のこと見てたんだって、獄寺くん」
「ツナのことが気になってたんだろ」
「そうなんだけどね」
 沢田は顔を上げ、袖で涎を拭いた。山本は初めそれを見逃したが、明日まで獄寺が帰ってこないことを思い出すと沢田のシャツを脱がせ、新しいシャツを机の上に置いた。
「獄寺みたいに着せてやる方が良かったか?」
「ううん、自分で着る」
 新しいシャツのボタンを留めながら、沢田は独り言のように言う。
「獄寺くんが俺のことを好きって言って笑うたびに、俺はどんどんあの日のことが忘れられない」
 信じていない、ということではない。山本はそれが分かって、黙って沢田の言うことを聞く。
「我儘な、贅沢な話かもしんないけどさ、俺、一回くらい躓きとか事件とか無しにさ、すごく当たり前のことを獄寺くんと共有したい。獄寺くんが、俺たちが日本でのんきに過ごしてきた中一とかの感情になるのってさ、いつもキッカケが要ったよね。俺さ、今だからこんな風に言えるんだろうけど、あの時に獄寺くんとやっちゃってもよかったと思ってるんだよ。もっと向こう見ずで、十年後とか二十年後とかに恥ずかしくて後悔しまくってもいいから、そういう恥ずかしいことしとけばよかった」
 沢田は言葉を切り、椅子の上で大きく伸びをすると、その背もたれのどっしりした椅子の上に膝を抱え上げ、子供のような顔をした。
「でもさ、矛盾してるけど、俺、あの日の獄寺くんのこと思い出すと嬉しくもなって、それって獄寺くんはもう絶対俺のことを殺せないからなんだけど、獄寺くんがそれくらい俺から離れらんないのが、めちゃめちゃ気持ちよくて、すっげー優越感で、世界中で最強な気分になる。それまで獄寺くんが吸ってきた空気とか、食べなきゃいけなかったもの全部に、俺がとって替わったんだ」
 目だけがぎらりと光って沢田は子供のような顔のまま、目の奥だけで笑う。
「最近、目覚めた。支配者の気持ちよさってマジヤバイ」
 山本と目が合う。山本はいつもと変わらぬ目で沢田に笑いかける。笑い返す沢田はボンゴレ十代目としてすごすいつもの顔に戻る。
「獄寺くんが帰ってくると、いつも俺が仕事にならないのは、そういう理由です」
「支配者の快楽か?」
「取り返せない中一、十三歳のやり直ししてんの」
 少し黙り込み山本は沢田の明日のスケジュールを確認する。そして考え込もうとしたが、考えたところで自分の出す結論は一つしかないことに気づいたので、分かったよ、と溜息をついた。
「ツナ、これは一ッコ貸しってことでいいのか?」
「うん。次のバカンスはまかせろよ」
「頼りにしてます、ボス」
 執務室を出た山本は、廊下の窓からローマの街並みを眺めた。石で作られた建物、石畳の道路が雨に濡れ、今も静かに降るそれに打たれながら、囁き声のような雨音を響かせている。
 懐から携帯電話を取り出し、獄寺の番号を呼び出す。通話ボタンを押そうとして、やめた。今日は黙ってヤサに帰り、眠ろうと思った。