きっと奴に思い知らせてやるぞ




 風邪をひいたので、安上がりに知り合いの医者に診てもらおうとしたら「男は診ねえ」と断られたので、仕方なく帽子でも新調することにする。日差しの中に春の気配の滲みかけた矢先のことだった。モレッティはニット帽を購入し、そのまま帰路につこうとしたところを列車の中で不意に死んでしまった。
 ちょっとした騒ぎだった。後にゴシップ誌を覗くと、消えた死体のミステリーとあった。警察の死体安置室から消えたのである。本人としては大真面目、かつ骨の折れる話であって、こんなことは二度と御免だと再び知り合いの医者に連絡をとった。
 知り合いの医者は殺し屋として働いていたらしく、何日も消息が掴めなかった。ようやく捕まえた時、モレッティの風邪もまた酷いことになっていて、「男で、しかもこんなに病原体をまとわりつかせた野郎を誰が診るか!」と医者兼殺し屋は叫んだが、有難いことに美人の女医を紹介してくれた。診察室に通されたモレッティは、成程、半世紀前の彼女に出会えば、彼はこの人を俺には紹介するまい、と思った。
「セリムの紹介ならば、診ない訳にはいかないでしょう」
「セリム?」
「イタリアのトルコ人よ」
 その言葉で、彼女もまた幼い日のシャマルを大いに利用し利益を得た一人だと解った。
「あなたも病を?」
「持っているわ」
 お気の毒になんて言葉は無しよ、と女医は先に釘を刺した。
「彼は若かったの。その分、甘いところもあってね」
 ドクロ病とエンジェル病、対となる病を彼女は持っていた。息絶えようとしていた彼女に、シャマルは抗体であるモスキートを放ったのだ。
「確かに、私を殺そうとしたのは彼。でも温情をかけてくれたのも彼だわ。老いていなければ、それに報いようとは思わなかったでしょう。私はかつて悪魔のように傲慢だったの」
 モレッティはインフルエンザだったらしく、カプセル状の薬を処方される。
「強い薬だから、服用時間を守って。飲みきりでね」
 女医とはそこで別れた。

 インフルエンザにかかり、紹介された女医との会話を思い出したら無性に悲しくなったので、気晴らしに帽子でも新調することにする。レジの脇には、店主のための小さなテレビが設置されていて、海外ニュースが流れていた。
「あんたも、この帽子にしたら?」
 老人が震える指で指差す先には、ドイツのビルの上に被せられた巨大なニット帽が映っていた。モレッティは笑う。
「俺に似合うかな?」
「知らんね」
 老人の指は始終震えているが、レジを打つ段になると、その指先だけ若返ったかのようにキーの上を踊り、また震える指でゆっくりとつり銭を返した。
 我儘は老人の特権だな、とモレッティは思った。あの女医に二つの対になる病を与えたのは、シャマルの実験ではないのか。モレッティの胸に居座り続ける悲しみの源はその疑念に起因した。自分と同じ状態に、自分とは違う別段特異体質でもない人間が陥ったら。ウィルスの力は拮抗するだろうか。それともどちらかが競り負けるか。そういった実験を彼女らは進めたはずだが、しかしシャマルはその結果を知っていたのだろうか。かつて幼い自分を冷徹にモルモットとして扱った女医。またその女医に復讐の刃を向けた青年。許しがたき敵であったはずの女といまだに繋ぎを取り続けているシャマルは、その結果を知りたいのではないか。老いた末、彼女はどうなるのか。体内での拮抗状態は崩れてしまうのではないか。それは己の未来ではないのか。その経過観察を殺し屋として続けている。
 勿論、ただの空想ではある。女だから情をかけたのかもしれない。しかし、あのトライデント・モスキートが? だとしても老いた女医が、シャマルのそれを情だと納得しているなら結構なことだ。幸福は誰にも破壊されるべきものではない。初めてイタリアのトルコ人と出会った彼女は、老女と呼ぶには早い。どのような容姿だったか、それを想像した時、モレッティもまた、あれがセリムの若さ故の情でよいのだと納得した。
 不意に、モレッティは踵を返した。帽子屋に後戻りをした彼は、てっぺんにポンポンのついたニット帽を買った。カウンターの老人に尋ねる。
「似合うかね」
「悪かぁないな、餓鬼みたいで」
 モレッティは笑って、グラーッツェと言った。





2008.3.17