OUR DAIRY LIFE真ん中より少し前寄りの席に、中央の通路を挟んで二人は座っていた。スピーカーからは絶えずBGMのような機械音が鳴り響いていた。急に、左側の席の男が身じろぎをした。右側の席の男は即座に反応し、わずかに席から腰を浮かせ左側に座る男を見た。スクリーンは真っ黒な背景の上をエンドロールが滑り出していた。左側の席の男の身じろぎは、その不意に訪れたスクリーンの暗がりへの驚きと反射だった。背もたれから背を離し、前の方に突き出された首は、ただのエンドロールにかぶりついて観るような格好のまま止まっていた。右側の席の男もまた、わずかに浮かせた腰を落ち着けるのに随分と時間をかけ、再び着座した時にはメーカーのロゴの羅列も終わるところだった。 フィルムが終わり、ほんの一、二秒、スクリーンの上に白い影が走る。それさえ消えて、黒が黒という主張をせぬぼんやりとした陰になったのを見計らうように、天井の明かりが暗いオレンジ色の光を落とした。右側の席の男は、ようやく懐から手を出した。マイトに触れ続けていた指先がかさかさに乾いていた。その指先に気をとられた一瞬の間に、すっくと左の席の男は立ち上がっていた。 「十代目」 右側の席に腰掛けていた男、獄寺は意図せず小さな声で彼を呼んだ。十代目と呼ばれた沢田は、まだ腰掛けたままの獄寺の、しかし浅く腰掛けた姿に微かに笑って、帰ろうか、と言った。 二人で映画館を出る。入り口で老いた支配人が頭を下げる。沢田はグラーッツェと声をかけ、獄寺の開けた扉をくぐった。街角には落ち着いた静けさと、夕暮れ前の一際淡い光が満ちていた。沢田は眩しそうに目を細め、周囲をぐるりと見回した。眉を寄せたまま、彼は口元だけで少し笑った。 「このどこかに」 沢田の声も小さい。これが賑やかな街角ならばかき消されたろう声だった。獄寺は隣につく。 「リボーンもいるね」 沢田は言った。獄寺は頷き、応える。 「今日の夕食は、何が何でも一緒にって言って」 「はい」 それからしばらく無言で歩いた。沢田は決して不機嫌な訳でも、また落ち込んでいる訳でもなかった。獄寺にはそれが何となく解った。獄寺は手の側に、沢田の手の体温を感じていた。沢田の手はすぐ側で揺れていた。 小さな橋を渡る。路地を曲がると屋根の形に添って光と影が交互に降り注いだ。沢田の歩調はわずかに緩み、影の中にいることを安堵するかのように、ゆっくりと歩いた。あー、と独り言のような声を、沢田は軽く目を伏せたまま上げた。 「面白かった」 「映画ですか?」 「うん」 沢田の返事は短い。しかし話すことを厭うている訳ではない。そこで獄寺はもう少し言葉を送り出す。 「随分、昔の映画でしたね」 「そんなに昔じゃないよ、多分、俺たち高校生とか…」 「まだ、そのくらいですか」 「うん、三、四を十年から引いて、七…くらい? 七年前くらい、じゃない?」 「十年から引いて?」 「君と会った年、十年前」 不意に沢田は黙り込んだ。獄寺も口を噤み、隣に並んだ。沢田は不機嫌に沈黙しているのではない。なんだか柔らかいような、ぬるい空気が路地に漂っていた。 「手、繋いで」 沢田は言ったが、自分からは手を差し出しはしなかった。獄寺は手を伸ばし、沢田の手を取った。沢田は歩き出す。獄寺も歩き出す。二人の距離はわずかに近づく。 「多分、『いのちの食べかた』ってタイトルだった」 「はい」 「テレビで予告編観て、吃驚したんだ」 「あの時、ご覧に?」 「ううん、観てない」 初めて観た、とそこで沢田は本当に目を瞑った。そして獄寺に誘導されるままにゆらゆらと路地を歩いた。獄寺が不安になると、沢田の足下も揺らぐ。獄寺がまっすぐ歩けば、沢田もまたゆらゆら揺れながらも気持ちよさそうに歩いた。 「キスして」 「え?」 思わず離れそうになった手をぎゅっと握りしめる。沢田の腕が伸び、上体がぐん、と反る。その格好のまま、沢田はゆっくりと目蓋を開いた。 「からかってないよ」 「あの…」 「獄寺くん」 俺はああいうことを知ってた筈なんだ、と沢田は言った。 日が建物の向こう側に入り込んだか、影が濃くなる。運河にそって涼しい風が吹き抜け、沢田の額やうなじの毛を揺らす。 「俺と獄寺くんが二人きりで何年も前の映画を観るお金。今朝の朝食。柔らかいベッド。寝る前の一杯。昨夜、君と食べた夕食。サーモンと、ロブスターのソースと、パンと、その他いろいろ」 沢田の目蓋は今やはっきりと開ききり、しんと静かな目が真っ直ぐに獄寺を見ていた。 「俺は知ってた筈なんだ。マフィアになんかなりたくなかったから、余計に知ってた筈なんだ。誰の持っていたお金が、俺の食事になってるか。俺は食肉工場も、あんなでかいビニールハウスも見たことないよ。でも、あそこに流れてた血とか、無表情に腑分けするおばさんとか、夜中までレタスを収穫する人とか、そういうの、知ってたんだ。同じことなんだよ。プリーモから今まで、全てのボンゴレが、ボンゴレだけじゃなくて、この世界にいる誰も彼もが。ヴァリアーも、キャバッローネも、ボヴィーノも、あの脳天気なトマゾだってそうだし、きっと皆知ってる筈さ。ただ、毎日のことで慣れたり、当たり前になってるけど」 急に沢田の掌が広がり、獄寺の伸ばした手を両手で鷲掴みにした。 「命を食べてる」 不意に沢田の表情は崩れ、破顔した。 「昨夜、急にそのこと思い出して、そしたら見たくなったんだ、映画」 柄じゃないって思ったろ、という言葉に答えることの出来ない獄寺を沢田は愉快そうに笑った。獄寺は笑われるままに何も口に出せずいたが、やはり不意に沢田の身体を抱きしめる。すると、一瞬、沢田が笑うのをやめ、胸に顔を埋めるのが解った。 「あんな風に人を殺したくないから、イタリアに来たんだ」 「はい」 「生きている人の人生をあんな風に扱いたくないから、ボンゴレになったんだ」 「はい」 「俺」 獄寺の胸から離れ、沢田は顔を上げ、獄寺の目を見た。 そして恥ずかしがるでなく、照れるでなく、言い淀むでなく、言った。 「君が好きだよ」 急に獄寺の腕は震えだした。俺もです、という言葉が喉まで出かかって無理に飲み込まれた。ありがとうございます、という言葉もやはり喉までせり上がり、そして嚥下された。 「キスさせてください」 ようやく獄寺は囁いた。沢田は頷いた。 額に、こめかみに落とす。頬に触れ、すり寄せる。沢田の手が背中に回される。唇にキスをした時、獄寺は自分が泣いているのではないかと思った。しかし今は、それで構わないと思った。あまりに敏感な感受性を持った未熟な大人のように、心震わせ、そして沢田を抱きしめると、愛しています、という言葉が自然と口をついた。 「聞きたかった」 と、沢田が耳元で囁いた。 * その日の夕食は一堂に会したは良かったものの、リボーンの叱責するような視線が痛くて、その日ばかりは山本の無遠慮な明るさが、獄寺にはありがたかった。それでも、と沢田は後に囁いてくれたけれども。 「リボーンは別に怒ってなんか、なかったよ」 『ストライプらばーず』の風様へ、半ば強制バトンの献上品。 |