待ち時間、あるいは途上で




 バス停に死体が眠っていた。
 陽だまりの中のベンチは暖かそうで、本当は通りを北風が吹きっ晒していたのだけれど
も、その死体の表情が余りにも穏やかなのと、その頭に載ったニット帽が日の光を吸って
小さな毛屑が光を散らしているのが、まるでこの街の太陽を独占しているかのように見え
るのだった。シャマルはしばらく黙ってベンチの上に眠る死体を見つめていたが、やがて
隣に腰を下ろした。バスが来るまで、まだ間があった。立って待つのは疲れる日だった。
 コートの中にはジンのボトルが入っていた。シャマルはポケットの中で何度もその手を
遊ばせた。ボトルの口に指が触れるたび、彼は誘惑と戦う一人遊びなゲームを楽しんだ。
結果、シャマルの勝ち。十一連勝。しかし、隣で眠る死体の存在がゲームに影を差す。
 殺され屋とのゲーム。殺され屋が目を覚ます方法は簡単。その身体に触れて起こしてや
ればいい。起きろと声をかければいい。死体は生き返る。しかし誰も起こさなければ…。
誰もその肩を揺さぶらず、誰も目覚めの声をかけなければ眠り続けるだろう。もう目を覚
まさない。バスの黄色い車体が通りを曲がる。やがてこっちにやって来る。そのままバス
に乗ればシャマルの勝ち。連勝に一つ加算。十二連勝。
 排気ガスの中、シャマルは死体と取り残された。連勝は十一でストップ。ボトルをその
手に掴みジンを一口呷る。舌へ刺激、それが喉を通過して胃の上にずどんと落ちると、太
陽さえその色を変えて見えた。
 死体は瞼を開いている。焦点を結ばぬ虚ろな瞳が陽光を鈍く反射する。――いつまでそ
うしているつもりだ、と声をかけると瞳孔が縮まり、ぎこちなく口元に笑み。
「…無事、ここに辿り着きましたか」
 返事の代わりにジンのボトルを渡すと、殺され屋はゆるく持ち上げた腕でそれを受け取
った。軽く揺らし、中身を確かめる。
「乾杯はまだ、だったので?」
「…夜だ。綺麗なおねえちゃんを大集合させて、それからだろ」
「じゃあ乾杯の一番乗り、わたしが取っちゃいましょう」
 殺され屋は至って明るく笑うと、太陽に向かってボトルをかざして見せた。
「ヴァリアーのスカウト、正式辞退、おめでとうございます」
 シャマルは鼻で笑ったが、いや本当にね、と殺され屋は一口飲んだボトルを返した。何
となく続きを聞く気がしなくて、受け取ったそれをそのまま口に運ぶ。ジンの身体の中に
流れ込む音の向こうで殺され屋の声がするが、何を言っているのかは聞き取れない。ざま
あみろ。
「…で、替わりに負うことになった仕事は何です?」
「秘密」
「美人にはぺらぺら喋るくせに」
「喋るかよ」
「嘘うそ、殺され屋の情報網を舐めてもらっちゃあ困りますよ」
 濁り始めた視界の中で、殺され屋は笑っていた。口元を緩め、目を細めてみせるだけの
微笑。そうか、何人か消えた女は…。
「食えねえ奴だな」
「私なんかより、もっと上がいるでしょうに。門外顧問でしょう、次の仕事を決定したの
は」
「それだけ知ってるなら、俺より耳が早い」
「この先が知りたいところです」
 微笑は崩れなかった。シャマルは急に何もかも馬鹿らしくなった。ジンと明るい太陽の
せいだと思った。濁る視界の中では光が散り、幾条にも分かれてベンチに降り注ぐ。七色
の光。
「…アルコバレーノ」
 急に殺され屋は沈黙した。それが殺され屋の正しい姿だと思ったシャマルは満足して、
ボトルにわずか残ったジンを飲み干した。
 バスが来るまでは間があった。ジンの酩酊がシャマルの中を心地よく駆け巡った。彼は
ずるずるとベンチにもたれかかり瞼を伏せた。死体のように力を抜き、ただ降り注ぐ日の
光を受ける。酔いに包まれた神経にぼんやりと歌声が触った。小さな声だった。殺され屋
が流行の歌を口ずさんでいるようだった。モレッティのくせに。シャマルは心の中で呟い
た。流行の歌だなんて、モレッティのくせに生意気な。
 肩を揺さぶられる。北風が頬に吹きつける。バス停はビルの影に入ってしまっていた。
殺され屋がバスのステップに足をかけて振り向いていた。
「乗らないんですか?」
 シャマルは不愉快にまかせて手を振った。殺され屋はまた声に出さず笑った。
「職に貴賎なし。しかし、おめでとう、ドクター・シャマル」
 バスはこれでもかと排気ガスを吐き出して走り去ってゆく。シャマルは咳き込みながら
立ち上がった。コートの襟を立て、バスの行った先とは反対方向に歩き出す。歩き出すに
つれて歩調は速くなった。そうだ早いところ美女を大集合させて乾杯をせねば。そしてそ
の胸やら尻やら胸やら胸やらに溺れるのだ。そうしないと風邪を引いてしまう。
 シャマルはバスの発車する間際の科白を思い出した。死体のくせに生意気だ、と彼は唇
を緩めた。






チキンさんへ。
シャマルがヴァリアー候補だと本誌で解ったときは、本当に吃驚しました。

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