熟れきったオレンジのような西日が水平線にそっと足をつけ、今しも海にその疲れた身体を沈めんとする、西の海岸はひとけもない。沢田家光は泥だらけの安全靴を脱ぎ捨て、波打ち際に佇んでいた。春先の、まだ冷たさの残る波が火照った足に心地よい。彼は遠く沖を眺めていた。揺れる黄金色の波の間に毛むくじゃらの腕が浮いては沈むのが見えていた。
 一糸纏わぬ姿で海から現れたのは人魚ではない。毛むくじゃらの腕を持った男は身体を引き摺るように海から上がり、どさりと砂の上に腰を下ろした。家光は破顔し、首にかけていたタオルを男に放った。
「風邪ひくぞ、ドクター」
「ご心配、ありがとうよ」
 シャマルはタオルを受け取ると、躊躇わずそれで顔を拭い、俯いた。
 この男が岸壁に建つ別荘のテラスから女の細く白い腕によって突き落とされたのは、まだ西日とも呼べぬ太陽が空を悠々と泳いでいた時刻であった。すると随分長い水浴びだったことになる。
「死んだかと思ったぜ?」
「…死ぬもんかい」
 残照の影になった面が少し持ち上がり、苦々しげに歪められた口元が見えた。
 その時、くしゃみ。
 豪快な笑い声が響く。肩を揺らして笑う家光はシャマルの隣にどっかりと腰を下ろし、何度も何度も裸の背中を叩いた。




 淡い青の闇が支配していた。窓から通る風は澄んでカーテンを大きく揺らす。
ビアンキはベッドの端に腰掛け、頬に風を受けていた。床の上には男物の服が脱ぎ散らかされ、落ちていた。ビアンキは人形のように腰掛けたまま、じっと宙の一点を見つめていた。否、その視線は宙に吸われたのか。屋内を漂う青い闇が、そのまま彼女の瞳から光を奪ったかのようだった。
床の上のシャツは、やけに白々と、抜け殻のように横たわっている。
 不意にビアンキの頬を涙が伝った。表情を人形のように固まらせたまま、大粒の涙が次から次へと溢れ出す。マスカラの溶け出した黒い涙が化粧を溶かし、頬にはマーブルのような筋が描かれた。
 ごつり、と重たい足音が聞こえた。ビアンキは肌の表面が勝手に震えるのを感じた。砂にまみれた靴がごつりごつりと床を踏み、ビアンキの前で止まった。
「心配したのか?」
 低く柔らかい声が問いかけた。
 赤い唇がぎこちなく動く。
「まさか」
 掠れた声で返した。声を出した途端、凍っていた顔の表面がくしゃりと歪んだ。ビアンキはタンクトップの胸に顔を押し付けた。嗚咽が喉を突いて出た。
 家光は黙って、優しくビアンキの肩を撫で続けた。




 モレッティは坂を上る。家光からの電話を受けて、岸壁の上の別荘に向かっていた。途中、街角を興奮で顔を真っ赤に染め駆けてゆく若い娼婦とすれ違った。不意に、少し哀しくなった。
 哀しい気持ちをそっと腹の底に持ったまま、建物の並ぶ通りを抜け、海からの風の吹きつける坂を上る。細長い、二日の月が、水平線の際で微光を放っていた。微かに橙、微かに赤い。モレッティはすれ違った若い娼婦より、随分顔を合わせていないあの女を思い出す。彼女の唇はもっと瑞々しく、厚く、柔らかく見えるのに。
 別荘は門も、玄関の扉も開け放されたままだった。澄んだ冷たい海風が屋内を通る。奥の部屋で海の底のような青い暗闇がゆらゆらと揺れていた。モレッティは足音を忍ばせて部屋の中を覗き込んだ。  ベッドの上にビアンキが横たわっていた。
 モレッティはビアンキの枕元にそっと跪いた。ビアンキは化粧気のない顔をシーツに沈み込ませ、疲れ果てたかのように眠っていた。
 腹の底の悲しみが身体中にしんと染み込む。死に落ちる時ような、暗い眩暈を感じた。「ビアンキ」と小さな声で呼んだ。冷たい額と触れ合うと、目尻に涙が滲んだ。








 冬の雨の名残のような風が渡った。鼻先を枯れ草がくすぐる。風が止むと枯れ草はゆっくりとしなり、拓けた視界には青空が広がっていた。リボーンは二、三度、ゆっくりと瞬いた。髪も服もしっとりと湿っていた。
 枯れ草を踏む音がする。泥濘を歩いて泥にまみれた安全靴が、草を踏み、リボーンの枕元に止まった。
「どうした?」
 リボーンは答えなかった。海辺の町でのバカンスを逃げ出したのは、そうだ、強いて言えば自分がヒットマンだからだろう。生れ落ちた瞬間からそうだということだ。あの医者のように娘ほどの年の娼婦の身体を抱いて生を慰めるのも憂い。あの男が自分と同じ年の若い娼婦の肩を抱き別荘の門をくぐるのを見たとき、唯一の財産であるわれとわが身さえ重く、厭わしい程に持て余してしまった。あとはCZ75の重みに引き摺られるように歩いただけ、そして冬枯れの野原に辿り着いた、だけ。次の仕事が入るまで生きるだけ、だ。
 それが本分である。それだけでいい。
「友よ、大切な忘れ物だ」
 リボーンは目玉を動かした。沢田家光の頭に自分の黒い帽子がのっている。リボーンは瞼を閉じ、長く長く息を吐いた。雨に洗われ白く冷えた顔の上を鳥影がよぎった。
 家光はしゃがみこみ、リボーンの寝顔を見下ろして微笑した。





チキンさんにリクを頂いて書いた家光絡みのシャマリボ。
個人的好みによりビアンキとモレッティも。

すると後日、チキンさんがイラストをくださいました。
私の理想以上の素晴らしさと美しさでリボーンが横たわっています!
許可をいただいてアップさせていただきました。
チキンさん、重ねてグラーーーッツェ!

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