スイートルームの娘




 男の人の身体の匂いが朝のベッドにも残っている…。
 ハルは身体を起こしはしたが、まだシーツから完全に抜け出ることも出来ずベッドの上
に座り込んでいた。思いの他成長しなかった胸が寒さに鳥肌立ったが、それもゆるやかな
暖房の熱にゆるゆると収まる。そうか、あの男は私をこのベッドに残して出て行く前に暖
房をつけるゆとりを持っていたのか。ハルにはゆとりがない。身体が重く、身体以上に心
が重たかった。
 初めて男と寝たのはよりにもよって、この街一番のホテルのスイートであり、それを用
意してまでハルの要求に応えたのが山本武という男だった。そうだ、申し出たのはハルの
方なのだ。山本は一度だけ「いいのか?」と尋ね、ハルが「いいんですよ」と応えると、
「いいのか」と邪気のない顔で笑った。
 私は安全そうだから、ってそんな理由で山本さんを選んだんじゃないですよ。でも、本
当に安全そうな笑顔だった。ベッドの上でさえ、自分が服を脱いだ瞬間さえ、昨夜が、初
めての夜が訪れるのを避けられるかもしれないと思わされた。しかし結局、沢田としたこ
とのないことの全てを山本はハルに教えてしまった。キスも、触れる手も。
 ――舌で舐めるなんて、変態みたい。
 昨夜シャワーを浴びた浴室が急に恋しくなる。私はまだ綺麗な身体のままだったんだ。
白い浴槽と金色の蛇口。熱いお湯をためて、その中に沈みたい。いっそそのまま沈んでい
きたい。誰にも会いたくない。誰にあっても憂鬱になってしまう。山本さんは駄目。ツナ
さんはもっと駄目。どんな王子様がいても目を覚ましたりなんかしない、だって私は白雪
姫やシンデレラじゃないんですから!
 ようやく立ち上がり、壁沿いにふらふらと歩く。毛足の長い絨毯が、裸足の足の裏に気
持ちよいが、それを味わう気にもならない。むしろその気持ちよさのままに、ここで倒れ
伏したい気さえした。
 少し泣けたのはテーブルの上に朝食が用意されていたことだった。そして浴槽にも綺麗
な湯が張られていて、
「山本さん!」
 叫ぶと、ばつの悪そうな顔の山本が顔をだしたことだ。
「ばか!」
 右の拳をくりだす。山本は黙って打たれた。
「ばかー!」
 今度は狙った。狙われたのを解っていても山本は避けなかった。涙で歪んだ世界の中に
目に痣を作った山本が困った顔で笑っているのが見えた。
「どうせ…どうせ、ハルは子供ですよ!ばかにしないでくださいよ!ハルは…」
 昨夜、散々自分を好きに撫で回した手がまた触れて、身体が宙に浮く。ゆっくりと浴槽
に沈められると嗚咽が止まらなくなった。蛇口からは新しい湯が流れ込み、湯気がほかほ
かと湧き上がる。ハルはお風呂が好きなのに、こんなに悔しくて、後悔? 後悔しながら
泣いている?
「悪い」
 小さな声で山本が囁いた。
「俺ばっかり幸せだったんだな。ごめんな」
「う…」
 ううーっ、と嗚咽が止まらない。ハルは無茶苦茶に腕を振り上げ山本に湯を浴びせかけ
た。山本は頭からびしょぬれになる。山本は少し目を瞑り、ハルのされるがままになって
いる。
「山本さんの、ば、ばか! ハ、ハ、ハ、ハルだって、好きでもない人と、そんな試すみ
たいな、そんな、してみたいみたいな、そんな、そんな、ばかなこと、しませんよ! ハ
ルだってちゃんと十年、歳とったんですよ!」
 今度はハルが目を瞑った。俯きながら、やたらめったらに湯を散らす。
「で、でも、不安だったんだから。しょうがないじゃないですか! 不安ですよ! 怖い
ですよ! こわかったですよ! でも、山本さん、や、さしかったじゃ、ないですかぁ!
だから、ハルは…」
 もう何が言いたいのか自分でも解らない。きっと山本が抱きしめなければまだ続けてい
ただろう。
「ごめん」
 ハルは抱きしめられたまま浴槽の縁を握り締める。
「今度は、怖くないように、しよう」
「またする気ですか!?」
 振り上げ、下ろした手のひらは見事額にヒットし、べちん、と音をたてた。






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