蒼い時




 たすけて、と彼女は小さな声で言った。灰色の長い髪が長椅子か
らなだれ落ち、青ざめた頬と伏せた目が見え隠れした。モレッティ
はその様子を瞼の裏から消せず街を歩く。薬屋で買った生理痛薬を
一袋、小さな紙袋を右手に、気をまぎらすアルコールも考えたが、
果たして女の身体にいいものか解らない。結局、小さな茶色の紙袋
一つ、両手に抱えるようにして雪のちらつき始めた街路を足早に行
く。
 部屋に戻ると、クッションの上に乗せたはずの頭がまたずり落ち
ている。灰色の髪は床につかんばかりで、せっかく身体を包んだは
ずの毛布から細い肩が覗いていた。モレッティは肩の上の雪も払わ
ず、彼女の枕元に跪く。小さな声でビアンキと呼ぶと、黒い目がち
らりと自分を見た。
「つらいのよ」
 髪の隙間から涙声が聞こえた。
「おなかが痛いだけだと思う?」
 モレッティはコップ一杯の湯と薬を一包、ぐったりと力を無くし
た彼女の身体を持ち上げ、飲ませる。再び長椅子に横たえると、電
気の下で青ざめた顔が悲しそうに溜息をついた。
「触って」
「冷たいよ、手」
「撫でて。いいの」
 毛布の中に手を差し入れ、彼女の腹の上に置く。この中で今も血
で作られた部屋が壊れていっているのだと、それを彼女ばかりでな
く、世界中の女が毎月毎月繰り返しているのだということが今も不
思議だ。モレッティはゆっくり腹をさする。ビアンキは動物のよう
に表情無く目を瞑る。
「ベッドで寝ていいよ」
 モレッティはその夕、何度目かの提案をした。が、ビアンキは首
を振った。
「あなたのベッドだもの」
「でも居間の長椅子だなんて」
「だって私はゲストだもの」
「ゲストならもてなされればいいさ」
「いいえ、礼儀が必要だわ」
 手は機械的に繰り返し繰り返しビアンキの腹を撫でる。やがてビ
アンキの体温が、触れ合う摩擦がモレッティの手をぬくめる。肩の
上の雪がコートに染みて黒いしみとなる。彼は帽子を被ったままだ。
 たすけて、と彼女は小さな声で言った。たすけるよ、とモレッテ
ィは小さな声で答えた。私は君をたすけよう。薬が効いてきたのか、
彼女の瞳はまどろみかけている。重たく半分閉じた瞳が、不安げに
モレッティを見上げる。
「わたしをたすけてくれる人だなんて、本当にいるのかしら…」
 ずっと、と彼女は手を伸ばす。白く柔らかくあたたかい指先が凍
てたままのモレッティの鼻に触れる。ずっと待ってるのよ…?
 もう眠ったらいい、とモレッティは掠れた声で囁いた。ビアンキ
が目を閉じると、彼は俯いて深く息を吐いた。






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