あなたが私にくれたもの




 受話器を耳に当てた瞬間、かつんと小さな音が耳の底に落ちた。いつも慣れた仕草の中
に落ちた小さな違和に沢田はふと思いを巡らせ、ようやく両耳のピアスの存在を思い出し
た。ダイヤルを回しながら空いた手でそっと耳たぶに触れる。冷たいプラチナの感触に、
まだ慣れなかった。
 そうか、これから受話器を耳に当てる度に、自分はこの小さな音を聞くのか。もう、こ
の小さな音を耳の底に落とすことなしに電話をすることはないのか。あるいは、このピア
スを外してしまえば今聞いたこの音を聞くことなく電話をすることになるのだ。老いて、
死ぬまで、自分はこの二つを選択せねばならない。
 せねばならぬ、と言うほどの強制を持つようなことでもないのに、沢田の顔は急に渋く
なり、些かの憂鬱に囚われた。ピアスと受話器のぶつかりあって起こした小さな音が、不
意に思い至らせた今後の人生や老いについてが、今更のごとくまざまざと彼に人生たるも
のを見せつけたのである。すなわち死ぬまでの道だ。これっぽっちの変化であるが、どう
して、これをくれたのが京子だというのが理由の一端を担っていない訳でもないだろう。
沢田は京子を思い、己が先に何十年と伸びる生を思い、その内どれだけこの音を聞くだろ
うか、聞くたびに京子を思うだろうか、老いても尚思うだろうか、これをくれた京子の笑
顔に胸を圧され、とうとう受話器を置いた。
 人を使って呼びに遣らせ、本来なら電話一本で駆けつけるはずだった山本が沢田の机の
前に立ったのは夕刻である。とは言え、空の机の前であった。
「ツナ」
 寝室のドアを開けると、沢田はベッドにだらしなく横たわったまま足を広げて、投げ遣
りに笑って見せた。山本は上着を脱ぎながらボスの寝室に邪魔をする。
「どした」
「どーもしないよ」
「俺を呼んだだろ」
「山本」
 沢田は寝返りをうち横臥すると、斜に山本を見上げた。
「取ってくれ」
 開けたままのドアから差し込む西日に、プラチナが一際光る。山本は少し屈みこみ、沢
田の耳に指先を触れさせた。
「あ」
 沢田は小さく息を吐いた。意識せず眉が寄る。山本の指は耳の裏に触れている。
「待って、やっぱり」
「やめるか」
「待って」
 沢田は目を瞑った。瞼の裏に様々な思いが立ち現われては消えた。京子の笑顔。ピアス
の音。煙草の匂い。獄寺。京子の笑顔。獄寺。
「山本」
「なんだ?」
「何か喋って」
「なにか?」
「何でもいいよ」
 山本の指が耳から離れた。微かに肌寒さを感じた。
 ベッドに座りなおす気配がした。スプリングは軋みもしなかった。これは上等なベッド
なのだ。ネクタイを解く衣擦れの音。そして落ち着いた気配。
「好きだ」
 山本の落ち着いた声音が優しく聞こえた。
「好きだぜ、ツナ」
 沢田は潜めていた息を吐き出した。
「俺も、獄寺も、死ぬまでお前に首っ丈だ」
 死ぬまで。ピアスの音。老いへの道。俺たちには本当に老いが来るのだ。あるいは、老
いの来る前に死んでしまう…。
「ツナ」
 沢田は返事をしなかったが、山本は言葉を続けた。
「今日、獄寺とメシなんだよ。一緒に来いよ」
 受話器とピアスのぶつかった、あの時、俺は山本に電話をかけようとしていた。仕事で
もあった。獄寺を呼んできて欲しいと頼むつもりだった。会いたかったのだ。今朝、初め
てつけたピアスをまだ獄寺には見せていなかったのだ。今日は忙しかった。俺は書類を二
山片付けたんだ。山本がトマゾに出かけていたのは知っていた。獄寺がどこにいるか教え
てくれなかったのはリボーンだ。あいつは、俺が仕事しなくなることを知ってたんだ。
 獄寺と、山本と、夕食。
「…ああ」
 沢田は低く答えた。一言返事をするのに酷く疲れていた。眠気が襲う。山本はきっと側
にいる。目を開けなくても不安ではない。
 ピアスはつけたままでもいい、と思った。死が俺たちを分かつまでこのままでいい、と、
沢田は小さな変化を穏やかさと共に受け入れた。それは疲れた二十三歳の身体に安易な微
笑をこそ齎しはしなかったが、この春先の日暮れの空のようにどこまでも静かに広がる穏
やかさだった。






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