ソング




 真四角に切り取られた光が床の上に落ちている。その上にぱたりと落とされる素足。退
いては、またぱたりと踏む。そればかり繰り返している。壁にもたれかかったその男は既
に退屈さえその表情から捨て去り、ただ、ぱたり、ぱたり、と光の落ちた床を踏む。彼の
頭上、天井に近い場所には、床に落ちた光の模様と同じく真四角の小さな窓が開いている。
それ以外は扉一つしかない、暗い部屋だった。
 ランボの目はぼんやりと濁り、四角く切り取られた光を鈍く反射させる。その目に時の
流れは映らず、彼の血液さえ流れるのを放棄し始めたかのように身体は弛緩し、くすんだ
枯葉のように色をなくす。数日前まであの窓を見上げては、真四角に切り取られた青空を
切望していたはずなのに、今は何もかも毟り取られた。希望も、気力も、魂も、あの男が
全て。
 味をなくした食事はテーブルの上で蝿に食べられている。酒も水も区別はない。帰って
きた奴にぶちまけてやると、男は黙ってランボを打ち据え、床の上に引き倒した。そのと
きの血の染みが床の上には残っている。もうランボの目には見えていないが。
 ふと床の上の光の四角が消滅する。ゆるゆると顔を上げると窓が灰色に曇っている。ラ
ンボの首は力を無くし項垂れる。ぐらりと身体が揺れて、そのまま横倒しになった。埃が
舞ったがランボは咳さえしなかった。
 どれくらいの時間が経っただろう。外はいつの間にか雨が降り出した。雨音がランボの
身体を包む。ランボはその音と共に己の身体の崩れ去る音を聞く。壊れろ、壊れろ、さっ
さと壊れっちまえ。この世界ごと、俺を殺せ。
 雨音に混じるその音に、気づいたのはいつだろうか。雨はしとしとと降り続く。灰色の
空は変わりなくどんよりと濁ったまま。その中から耳に滑り込んできた、たどたどしい旋
律。この曲は…。そいから鮫だ、鮫にゃ歯がある…。老父の低い歌声がオルガンの音色に
乗る。何度もそれを繰り返すうちに、ランボの頭に小さな灯がともる。ああ劇の歌だ。ど
すをのんだやくざ者の歌。俺たちみたいなやくざ者の歌。
 ランボはゆっくりと身体を起こし壁にもたれながら立ち上がると、窓に向かって耳を寄
せた。オルガンはひこひこと息切れを起こしながら歌う。歌が終わると、外で拍手をする
音が聞こえた。それにつられるようにランボも手を叩く。老父の挨拶をする声。駄目だ、
まだ行くな、もう一曲歌ってくれ、ここから離れないでくれ。ランボは心の中で叫ぶ。す
ると、雨に濡れた石畳にコインを投げる音。再び、音楽が始まる。ランボは思わず安堵の
息を漏らす。
 うちにいてベッドに寝るかわりに、たのしみが欲しいのよ…。何の歌だろう。これも劇
の歌か。ランボは耳を澄ます。老父の声が高く変わる。嗄れた声が束の間、色めく。

   ソホーの空のお月さま、
   あの癪な台詞、「心臓の音が聞こえて」
   「あなたとならどこへでも、ジョニー」
   恋がつのり月が満ちる間はさ

 二番までの短い歌を、老父は外で雨に濡れながら乞うたった一人の観客と、壁越しにそ
れを切望するランボのために歌い続ける。

   意味のある
   筋の通ったことのかわりに
   たのしみをするのさ
   むろんたちまち身の破滅。

 ランボはそっと目を閉じて、老父の声と重ならせる。
「心臓の音が聞こえて」
 乾いた唇が陶然と繰り返す。
「あなたとなら、どこへでも……」

   恋が終わって、泥んこになった時はさ。

 雨は降り続く。投げられるコイン。続けられる歌。
 老父は歌い続ける。ランボは壁越しに、そっと歌う。乾いた唇を微かに動かし。心臓の
音が聞こえて。あなたとなら、どこへでも……。


          *


 いつしか壁の上の窓も夜の黒に塗り潰され、しかしランボは壁に全身を張り付かせ、じ
っとしていた。リボーンが扉を開けて入ってきても、そうしていた。
 ランプに明かりが入れられる。ランボは眩しさに目を細めながら明かりを振り向く。と、
はっとした。リボーンは黒い影のようにそこに佇んでいた。黒く長いコートは濡れそぼり、
裾から水滴が落ちては床の上に染みを作る。脱いで釘にかけた帽子からもぽたぽたと落ち
る。レオンはするりと主人の肩を滑り降り、テーブルの上の蝿を一蹴した。
 上着を脱いだ肩にも雨が染みているのをランボは見た。どうして。涙が滲む。どうして
こんなことをする必要がある。俺をこんなところに監禁しながら、全てのものから俺を隔
て、遠ざけ、お前だけのものにしながら、俺を狂わせながら。どうして今更。悔しい。解
らない。解らない。
「どうして…」
 ランボは雨の染みたリボーンの胸を掴む。どうして…。掠れた声で怒鳴りながら、その
胸に縋りつく。リボーンは黙ってランボを見下ろす。いつものように打ち据える様子もな
い。部屋が静まり返る。その中でランボに聞こえる自分の息遣い、そして。
「…心臓の……」
「音が聞こえるか?」
 ランボは顔を上げる。リボーンが見下ろし、冷たく笑っている。
「おまえとなら、どこへでも」
 途端に涙が湧き出した。どうして涙が出るのか。悲しくなどない。むしろ悔しいほどだ。
なのにランボはリボーンの背中に手を伸ばし、一杯に抱き締めながら泣きじゃくり続けた。
暗い空に降り続く雨が、小さな窓から見える。微かに部屋に届く雨音。リボーンの手が、
雨音のようにそっとランボの髪に触れた。
 濡れた、冷たい手だった。







(参考文献『三文オペラ』ブレヒト作・千田是也訳)

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