殺し屋ファムファタール




 照明の切れた電話ボックスに飛び込んで、真夜中の寒さに震えながらビアンキを呼び出
す。数コールで出た彼女を短い言葉で誘うと、迎えに走った数分後には出会ってしまう。
この人が俺の甘えを赦すのは大人だからだ、と山本は苦々しい表情を見せないよう性急に
ビアンキの身体を抱きしめた。髪の中に顔を埋めると艶やかな感触と柔らかな花の匂いが
鼻腔をくすぐった。
 俺は卑劣だ。卑劣だが、これからもこれ以上に卑劣になることを恐れはしない。沢田の
ためならば何も厭いはしない。あいつは十年前俺の命を助けてくれた。本気でこの十年を
オマケだと思うほど出来た敬虔とはいかないが、しかしこの十年は愛しい。沢田がその両
手で抱えてすくってくれたものだと思うと、あの時沢田の腕を感じた細胞は一つも残って
いないだろう身体であっても、この肉体が大切に感じる。
 その身体の、
「使い方が間違ってる気がするんだよなー」
「気がするの?」
 ルームサービスのエスプレッソから唇を離し、ビアンキが言った。振り向いたビアンキ
の後姿が窓に映る。窓の外は暗く、深い藍色に染まったガラスの向こうにポツポツと灯る
明かりも、逆に寒さを際立たせるようだ。
 山本はベッドから身体を起こし、正座して頭を下げた。
「すみません。気がするんじゃなくて、多分ばっちり間違ってます」
「多分? ばっちり? どっち?」
「えーと……」
 ビアンキは小さなカップをソーサーに戻し、椅子の上で身体ごと山本の方を向いた。
「もう、どうしたもんか」
「全ては愛よ。一途な愛の他は万死に値するわ、山本武」
「じゃあ死ぬっすね、俺」
「死になさい」
「できるならツナに殺されたかったな、ベッドの上で」
「後者の願いなら叶えるわよ」
 ベッドが柔らかく揺れる。山本は目を見開く。ビアンキはベッドに片膝を乗せ、山本の
上に覆い被さった。
「…ただしオプションが追加されるごとに報酬も跳ね上がるわ」
「さすがフリーの殺し屋十一年」
 山本は万歳をする。そして全身の力を抜いた。眉が少し寄るが、それも決して険しくは
ない苦笑に近い笑顔だ。そんな仕草や表情の向こうにあっけらかんと陽気だった彼の青春
時代が透ける。あの頃、俺は本気で死にたがった。それに引き換え見てくれ、この余裕。
 ビアンキがネクタイの結び目を解き、両端を交差させ手に握り締める。く、と山本の喉
が持ち上がる。
「死ぬ死ぬと言った後にまた死のう」
「なに?」
「何でもないっす」
「夢見なさい、たった一つの愛を、たった一つの幸福を」
「………」
 一つ瞬きをしてビアンキの顔を見上げる。逆光の中わずかにぼやける輪郭。獄寺と同じ
髪の色。一つ一つの造作はあの弟に似るというより極めたかのように女性的だ。けれども
山本はその中に獄寺を見出し、おまえには悪いことしたなあ、と心の中で呟いた。


 電話のベルで目が覚める。反射的に探った枕元に携帯電話の影はなく、目を開けると昇
り始めた朝日が目を射す。眩しさに顔を背けながら部屋を見回し、ここがホテルだと思い
出した。ベルは鳴り続けている。
 立ち上がるとかすかな衣擦れの音と共にネクタイが滑り落ちる。山本はふらつきながら
電話まで歩き、受話器を持ち上げる。リボーンの冷たい声にようやく目が覚めた。
 ビアンキの姿はとうにない。ふとロータスの匂いが鼻を掠めた気がしたが、すぐに分か
らなくなった。山本はカーテンを引き忘れた窓に近寄り、それを一杯に開け広げる。冷た
い朝の空気がわっと全身に襲いかかる。山本は全身に鳥肌を立てながら伸びを一つする。
 窓辺のテーブルには小さなカップが載っていた。底に残るエスプレッソの茶色い輪。唇
の触れた場所にかすかに色を残すルージュ。山本はそれを取り上げ少し微笑む。苦笑でも
ある。昨夜はただ働きをさせてしまった、毒サソリともあろう人に。
「……ん?」
 懐を探ると車のキーがなくなっていた。
「そっか」
 朝日の中で哄笑が弾ける。山本は笑いながら腹の底から嬉しくてならなかった。






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