理不尽な私たち




 冬の風の中。
 沢田綱吉、あなたが好きです。
 唐突に思う。
 冷たい風の中や、遅い朝の目覚めや。食事を待つ時間や。新聞から不意に顔を上げる時
や。シャワーを浴びて鏡を覗き込む直前の瞬間や。…唐突な思いに襲われ堪らない心臓が
一度強く脈打つ。それと一緒に獄寺は哀しさのようなものに全身を包まれるのだった。
 十年前は哀しさなど感じなかった。そして心臓を強く打ち彼を思うその瞬間の、何もか
もが実現可能なような不思議な力と湧き起こる熱意とが失われた訳ではない。それは今で
も、好きです、の瞬間に熱い血と共に全身を巡る。しかし同時に二十三の肉体に収まった
魂が十年前を覗き込み意外な程の若さに嘆息するのだった。
 二十代前半で既に年を取ってしまったかのような敗北意識は、現在の過ぎる若者賛歌に
助長されていると言えなくもないけれども、多分彼は本当に十年が経ってしまったことに
愕然としているのだ。十年前とは変わってしまった。本当に年を取ってしまった。裏の世
界に生き、生は有限であると知り、輝かしい時代の没落を何度も目の当たりにしながらも、
やはり彼は十代の少年だったから。
 十年前と同じような熱さで思う。沢田綱吉、あなたが好きです。次の瞬間、彼はごめん
なさいと小さく呟く。俺は何もできなかった。二十三は若い。けれどもう遅い。若気の至
りをおかすには何もかもが手遅れだ。石畳の道を正面から吹きつける寒風に押されながら
歩く。この国に来るのが当たり前だと思っていたのに、本当に辿り着くことなど信じてい
なかった。そしてそいった若い愚かしさが、凍てついた十一月のイタリアの街角で既に苦
々しくは感じられなくなっている。獄寺は眉一つひそめず、ただ靴音を響かせて黙々と古
いアパートを目指し歩いた。そこには山本がいる。
 山本と沢田の関係は知っている。あからさまに知らされはしない。何となく感づく程度
の雰囲気が時折流れている。しかし獄寺の目に映る沢田はきれいだった。具体的な姿は彼
の頭には浮かばない。セックスか。少し哀しくなった。そんな突拍子のないことは自分と
沢田ではできない。愛の欲望の先に待ち受けているはずの行為は、二人の間に置かれた途
端、突拍子もないものになる。そんな。できない。
 路地を曲がる。くだんのアパートが目に入る。寒い冬の最中でも、窓の外の洗濯紐には
シャツや下着がぶら下がっている。山本のいるはずの部屋は、それは隠れ家の一つでしか
ない筈なのに周囲の生活を営む日常に溶け込んでいた。
「ふん」
 鼻から息を吐く。心の中で、要領のいい奴、と呟いたが実際に口に出そうとすると億劫
で結局、獄寺は鼻から息を吐く。ふん。風に千切られ、白い息も見えない。四階に見える
あの部屋はぬくもっているのだろうか。窓はカーテンで閉ざされている。ふと思ったこと
を、彼は億劫さに無理をし口に出して呟く。
「十代目がいるのか?」
 かつて悪童と呼ばれた険のある目で睨みつける。
「返せ」
 余りにも子供じみていた。苦々しさを振り払うように言葉を継いだ。
「好きです」
 駄目だ。
「好きなんです十代目」
 泥沼だ。
 獄寺は踵を返すが、その足はタールにでもなってしまったかのようにベタベタしていて
グニャグニャで彼は自分に激しい憤りを感じるが同時に疲れている。いっそのこと橋から
凍てた川に身を投げたいとも思う。飛び降りてやる。頭がすっきりするだろう。しかし翌
日きっと変な噂がたってファミリーに迷惑がかかるだろう。…ばか、飛び込めるか。
「大人になったのに…」
 寒風を背に受けながら、背を押されるようにして弱々しく歩く。
「なったはずだ…」

 翌日、獄寺は高熱を出して寝込む。医者にはインフルエンザだと診断される。獄寺のう
なされている部屋に、沢田はそっとやってくる。かすかな声で唸りながら熱にうかされる
獄寺の手を沢田は両手で包み込む。
 沢田は獄寺の手を包み込んだまま、俯いて泣いている。嗚咽を殺すが、涙は止まらない。
次々とあふれ出しては小さな音を立てて落ちる。
 外では雪が降り出していた。






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