シングルズ/ウォーカーズ




 酒の匂い、秋の色、夕間暮れに残るかすかなぬくもりが空気にとけて、石畳の道からゆ
らゆらと立ち上がる。蜃気楼のようにそれは淡い金色から上空の冷たい水色へ、青へ立ち
上るごとにゆらゆらと色を変える、ように見えた。
 運河から吹きつける冷たい風にビアンキは目をそばめた。その瞬間に蜃気楼の姿も消え
る。モレッティの視線が赤くなった自分の頬をちらりと見たのを感じた。彼の顔色は春夏
秋冬いついかなるときも血の気なく、殺される時を待っている。
 顔色が悪いわね、と思ったままに口に出した。
 そうでもないよ、と彼は答えた。
「今日は」
 今日が先日より血色がよいのか、ビアンキには見分けがつかない。ついたと思っても、
きっと思い込みだろうと思う。こんなふうに、今日は。モレッティのことを考える。
 深い緑色のニット帽が灯り始めた街灯に照らされて鮮やかな緑に変化する。この帽子は
先日被っていたものとは違う。新しく買ったのかしら。私の知らない場所で。モレッティ
のことを考えるビアンキの頬は店の明かりに照らされて赤からオレンジに変化する。
 また視線が。
「寒くないか?」
 視線はすぐ頬の上を去り、モレッティは道の先を見ている。
「寒いわ」
 ビアンキも前を向いたまま返した。
「飲んでいくかい?」
「今日はいいの」
「じゃあ、ホテルまで送ろう」
 ええ、と小声で返事をする。モレッティはこちらを向かない。両脇の店からは酒の匂い、
秋の食卓のぬくもりに満ちた色、夕間暮れを照らす小さな街灯が点々と行く先を照らして
いる。飲む人、食べる人、笑う人の気配と話し声、歌い声がドアというドアから、窓とい
う窓から漏れ出す。運河から吹きつける風は、冷たい。
 ふと、吹かれるように隣からモレッティの姿が消えた。ビアンキは振り返った。モレッ
ティが数歩後ろに立ち止まり、街灯と街灯の間の暗がりに佇んでいる。運河から吹きつけ
る風に目をそばめている。やおら彼は一歩、二歩とビアンキに近づき、首に巻いていた暗
い色のマフラーを外してビアンキの首にゆるく巻きつけた。
 モレッティが歩き出す。ビアンキもその隣に並び、歩き出す。歩幅も歩調もモレッティ
が合わせてくれているんだわ。ビアンキはゆっくりと歩く。見詰めるのは道の先。視界の
端に揺れる暖かな明かり。店の並ぶこの路地から大通りに出て角を右に曲がればホテルは
すぐそこだから。
 玄関の前でビアンキは立ち止まる。
「じゃあ」
「モレッティ」
 口に出して名を呼んだ。
「他に言うことはないの?」
「なに?」
「何か話したいことはないの?」
 見上げるとモレッティは頭を掻いている。彼は自分より少し背が高い。
 大通りは時々追い抜き、すれ違う車のヘッドライト、一際明るい街灯の光が白い。ホテ
ルの窓から指す光も、ショーウィンドーの光も青白い。排気ガスの風が長い髪を幾筋か巻
き上げる。風に乗ってふと巻き上がる自分の香水の香り。モレッティが俯く。軽く目を伏
せる。
「このところ夢見が悪いよ」
「………」
「このまま、眠ったまま死ぬ気がして、不思議と怖いね。殺され屋なのに」
 自らの意思で心臓の鼓動を止めることのできる彼は一歩、二歩と前に出てビアンキに背
を向けた。白い首。血の気を失い、いつでも死体に変身するのが仕事の男。ビアンキは自
分でも驚いてしまってモレッティの背中を見るだけだ。こんなことを言って、私はこの後、
どうしよう。あなたと別れて、部屋で一人あなたのことを考え続ける? 今はそうしてし
まいそうで、けれども部屋に戻って電話が一本だって入ったらモレッティのことなど忘れ
て電話の向こうの誰かと笑いあえてしまいそうで、少し寂しい。
 ビアンキはマフラーを外した。
「忘れ物よ」
 モレッティは振り返る。差し出されたマフラーを手に取るが、首には巻かない。ビアン
キはそんなモレッティと視線を合わせたまま、乱れた髪を指先で整えながら言った。
「明日の朝、電話するわ」
「また買い物につきあうかい」
「いいえ。電話だけ」
「てっきり新しいマフラーをねだられるかと」
「それなら毛皮にするわ」
 モレッティが苦笑する。ビアンキは小さく声に出して笑う。
 タイミングを計ったようにドアマンが玄関の扉を開く。おやすみ。小さな声で言うと、
ああ、おやすみ、と程よく低い声が返す。
「チャオチャオ…」
 夜くらい寂しくてもいい。夜空からオーロラのように群青と、地上の明かりに照らされ
た青が落ちてくる。夜が好き。さよならは寂しい。でも好き。今夜は少しだけモレッティ
のことを考える。でもきっと眠ってしまう。明日は朝から電話。朝食のメニューは未定。
 私たちはまだ恋人同士ではない。






チキンさんのサイト『OIL』のPBBS・56番の絵から連想。

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