ケア・ミー・テンダー、ドクター





 頭上から落ちる貧しい光が不惑を過ぎた男の顔を、暗い橙と黒の肉感的な陰影をもって
照らしていた。手元のグラスはよく磨かれていたが、その貧しい照明のせいでグラスも、
グラスを満たす琥珀色の液体もすっかりくすんでしまっていた。安い色に染まった酒を男
は喉に流し込む。しかし尚も男は舌で唇を湿らせた。
 あの夜、男の目の前には一人の少年が座っていた。僅かに俯く、その視線の先には放棄
されたトランプのカードが散らばっていた。男が見つめたのは少年の白い頬の輪郭だった。
貧しい橙色の光に照らされながら、しかし少年の頬は白く、またすらりとした輪郭を保っ
ていた。急に、きょろりと瞳が動き男の視線を見上げた。すると白目の白さが一際鮮やか
に光るようだった。その時のことだった。
 つまり、とシャマルは思った。これが出産に立ち会った男と、そこで取り上げられた者
の年の差なのだ。
「あんたがそんな顔するなんて、王妃に手を出して国際指名手配になった時以来ですね」
 我に返れば、ここはテーブルではなくカウンターで、目の前に見えるのはバーテンダー
の老いた節くれ立った指であり、声をかけたのは少年ではなく自分と同じように中年の冴
えない男だった。しかし、まさか幻聴…。シャマルがゆっくりと首を巡らせると、カウン
ター席の隣には“殺され屋”が苦笑していた。珍しくトレードマークのニット帽を脱ぎ、
こわく短い髪を照明の下に晒している。
急に不機嫌になった。
「…うるせえな」
「随分間がありますね。気になりますか」
「誰がだ誰が。何が気になるんだ」
「まあ俺がどーこーは言えませんが…」
 モレッティは新しい酒を所望する。濁った色のグラスにくすんだ琥珀色の液体が注がれ
る。すぐには口をつけず、モレッティは酒を手の中で揺らめかせた。
「ただ、そういう冷たいところが魅力だと寄ってきた女性も多かったでしょ」
「あのなあ、何でもかんでもそこに繋げるんじゃねえよ」
 返答がないので横目に見ると、グラスの中身をあおっている。
「……はい?」
「何でもねえや…」
「でも事実冷たいじゃないですか」
「…………」
「優しい癖に冷たいから手に負えないんですよね、あんたの手管」
「…お前みたいに優しいばっかりじゃ、見てみろ、逃げられてるじゃねえか」
「はは。墓穴掘ったな」
 眉が寄り苦笑するが、目は楽しそうだ。知っている。ビアンキは凄くいい女なのだ。十
代を過ぎる、年をとるということが全く不利に働かない。今だってシャマルは、その姿を
見つければ抱きつき熱いキスを欠かさない。十年前の日本渡航以来めっきり強くなって、
だいぶ退けられる率が高くなったが女に対する努力は何時如何なる時も惜しむべきではな
いものだ。
 俺だったら追いかけるね、と呟くのを聞かれたらしい。意外そうな顔がこちらを向く。
「あんたなら一人逃がしても惜しくはないでしょう」
「俺は全員平等に愛してるの。使い捨ての女なんていやしねーよ」
 モレッティは頬を緩めて笑った。
「でもねー、今回は俺の太刀打ちできるような人じゃないんで」
「誰だ」
「リボーンさんと一緒に行っちゃった、彼女」
「…………」
 シャマルは手元に視線を落とした。グラスの中身は手にしたときから減っていない。唇
はすっかり乾いてしまっている。彼はそれを一気に干した。
「…付き合え」
 先に立ち上がる。モレッティは一瞬戸惑ったようだが、すぐに飄々とした気配が後ろか
ら続いた。
「飲み直しますか」
 狭い路地に出ると、人の気配に驚いたらしい猫の駆け抜ける影が一瞬見えた。外は暗く、
寒く、雲の影に微かに凍てついた月が見える。モレッティは物寂しげに帽子を被らない頭
を撫でる。シャマルは首からマフラーを外し、モレッティに放り投げた。
「だから、優しくしたら駄目ですって」
「まさかお前は安い勘違いなんかしねえだろ?」
「知りませんよ」
 モレッティはマフラーに首を埋め、珍しくにやりと笑う。
 そのまま無言で歩いた。月を見上げ、シャマルは夜が明けるまでの時間をぼんやり計算
した。今夜は熟睡できるような気がしない。彼は心の中で溜め息をついた。






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