ラブ・サイクラー




 道は森の中を横切り、緩やかな下り坂となっていた。乾いた道の上を自転車は軽快に走
ってゆく。時折、鋭いブレーキ音が木霊し、それに驚いた森の生き物の騒ぐ気配がする。
すると自転車からは笑い声が二人分、にぎやかに転がり出るのだった。
 木立の向こうでは夕日が湖にその姿をきらめかせている。ハンドルを握るビアンキの頬
を、時々木の陰から漏れる強烈な夕焼けが赤く染め上げた。後ろではリボーンが笑いなが
ら帽子を片手で押さえている。つられたようにビアンキも笑う。
 二人の間に言葉はない。ただ昼過ぎに路地で自転車を拾ってから唐突に始まったこの小
旅行を間歇的に湧き出す笑いで消費している。岐路に立てられた道標に笑みをこぼし、草
地を並行して走る鉄道が自分たちを追い抜くと笑い声を上げ、森に入ればくすくす笑いが
絶えない。
 ビアンキは時々、町に置き去りにしてしまった男を思い出す。高級ブティックの前で待
ち合わせをした、きっとこれから新しい恋人になるはずの男。ニット帽は脱いできて、と
電話口でねだった。彼はニット帽を脱いで待っててくれているのだろうか。忘れたわけで
はない。まして彼お得意の“アッディーオ”と言うわけでもない。でも、この人が。私の
愛人だった、まだ私より小柄な黒スーツの殺し屋さん。彼の涙を見てしまったから。手を
差し伸べずにはいられない。愛人関係の残り火というわけではないが、ただ、彼の存在は
心をたまらなく優しくさせてしまう。
 恋の感触が西日の熱のように触れ合った背中を焼く。しかしビアンキの内部はどこまで
も穏やかで、その熱から派生する唐突や焦燥や不安さえも逆に心地良く感じる。イタリア
だけにとどまらず世界を見渡してもトップクラスの殺し屋が、まるで銃を使いあぐねる素
人のように己が心を御しかねている。でも、いいんだわ。だって彼はまだ初めて出会った
時の私の年齢にも満たないんだもの。
 きっと幾つもあるヤサの一つから、路地の隙間の暗い螺旋階段を彼はゆっくりと降りて
きた。一体、その上では何を話したのだろう。電話で? それともあの医者はまだ部屋に
いるの? 殺し屋が涙を流しながら階段を降りるなんて…。
 地につくまでにはヒットマンの仮面をちゃんと被れるように、帽子の縁をみがき、涙を
袖口で拭って、彼は一歩一歩頼りなさげに鉄の階段を鳴らしたのだった。そんな、まだま
だよ。私はあなたと出会ってから毎晩毎晩涙を流した。嬉しくても。哀しくても。あなた
が急に日本に飛び立ってしまってからは尚。その程度の涙では足りないよ。
 ビアンキはブレーキから手を離す。自転車は道に転がっていた小石に一揺れすると、坂
を急加速で下り始める。背中から弾けるような笑い声。跳ねたり、ぶつかるように触れ合
う背中。もう何年のうちには背を追い抜かれるのかもしれないが、まだまだだ。ああ、そ
れにしてもあんな男のどこがいいんだか。あの男もあの男で、キス魔だなんだと、これで
は誤魔化しているにすぎない。触れない分、本気なようで、本当に嫌になってしまう。
 だから自転車は走り続ける。あの町から遠く離れて。リボーンがいないことに気づいた
シャマルはどうするだろう。想像はしない。ビアンキはそっと後ろを振り向く。夕日は湖
の向こうに身体を沈めようとしている。一際鮮烈な赤い光が木立を越して瞬く。その光に
照らされて、リボーンが笑いすぎて溢れ出した涙をぬぐうのが見えた。
「ビアンキ」
 呼ばれてビアンキは前に向き直る。反対側に曲がり始めたカーブにハンドルをきる。
「なに?」
「帰りはどうするんだ?」
 ビアンキはふきだした。
「そんなの、あなたが考えて」
 目の前から夕日が強烈に照らし出す。赤く染まった頬を吹き抜ける秋の風が心地良い。
森の終わりが見えた。






チキンさんのサイト『OIL』の絵掲示板にお邪魔して書いたもの。
Present for チキンさん。

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