ハロー、ミスター・ギャッツビー、天国の天気はいかがかな?




 事務所の机に座って、死ぬことを考えた。多分、俺はこの仕事が向いていない。モレッティは思う。多分、俺にカタギは向いていない。プリンターが吐き出すグラフは緩やかな右肩上がりの線を描いていたが、それでも自分に真っ当な仕事は向いていないとモレッティは思った。何故なら、今、死にそうな程、気が遠くなっているからだ。
 死ぬ。このままでは死ぬ。マジで死ぬ。生き返らない。エアーコンディショナーの効いた、外観も新しい、実に近代的なビルの一室だった。よく光って、クリスタルの塔のようだった。初めて玄関に足を踏み入れた時、彼は、自分にもまだ普通の人生を歩むことが出来るのかもしれない、と思った。確かにこの三年、実に普通のイタリア人として暮らした。仕事に出かけ、給料をもらい、ピッツァとパスタとワインで満足していた。バカンスにも出かけた。女連れではなかったが、楽しかった。
 しかし駄目だった。もう我慢の限界だった。こんな偽物くさいクリスタルの塔を墓標にする気はさらさらしなかった。御免だった。俺は、俺らしく死にたい。路地裏、廃工場、血溜まり、汚水、ゴミの山に半分埋もれていても構わなかった。硝煙の匂い。引き金の感触が、掌のずっしりとした重みが懐かしい。このカタギの生活にはない、火花のように弾ける生の饗宴だ。
 報酬? 勿論、それも桁外れだった。モレッティは手を伸ばす。震える指がプリンターから吐き出されるグラフをぐしゃぐしゃに握り締める。札束。金はまあ、欲しい。金があれば、手に入るものも多い。右肩上がりのグラフ。このままここにいれば、約束される毎月の通帳の数字。ああ、それでも、この心を摩滅させるような書類とグラフと訳の分からない数字の羅列がどこかから生み出す通帳の金ではなくて、この命を使い、この身体と、この手で手に入れるあの金が。その金で食らう食事とアルコールの酩酊が。
 もう少し待てば給料日だ。しかし、もう良い。声がかけられるが、誰の声とも分からない。俺がグラフを提出するといつも嬉しそうに笑う上司だろうか。それとも入り口近くのデスクに座っているブルネットの彼女だろうか。誰でもいい。俺を窓から放り出してくれ。路地裏の匂いをかがせてくれ。夜の湿り気をこの肌にくれ。大丈夫だ。俺には「殺され屋」の才能があるのだそうだ。一人で生き返ることが出来る。それどころか、心臓を止めて、尚、身体を動かすことだって。
 早く早く早く早く! もうこんな綺麗な場所には一秒だっていられない!
 真夏ならば熱気を。冬ならば寒さを。雨の匂いを。風の音を。目を焼く日差しを。そう、せめて、たった今この顎を床にしたたかぶつけたような痛みを。死んだように生きるってのは、誰が言い出したんだろうな。ほんと、上手いこと言いやがる。
 モレッティは少し笑う。少し笑ったまま死んでしまう。急に床に倒れたモレッティの身体を揺さぶっていたのは例の笑顔の上司だったが、女のような悲鳴を上げた。入り口近くのデスクにいたブルネットの女性は慌てて救急車を呼んだ。一時間後、モレッティはストレッチャーに乗せられ、霊安室に直行しかけていたが、たまたま通りすがりの産婦人科医がそれを目に留めて九死に一生を得た。産婦人科医は、モレッティの顔見知りだった。
 眉間に魂が集中したような気がした。とても熱かった。熱い!と叫び、肺が呼吸を取り戻した。彼は咳き込みながら起き上がり、痛みを訴える眉間に触れた。煙草の灰。
「起きたか、殺され屋」
「……トライデント・シャマル?」
 一度、仕事で組んだことがあった。トライデント・モスキートを操り、音もなく、気配もなく殺しを成し遂げる。鮮やかな手口には定評があり、ボンゴレ・ファミリーの、あのヴァリアーのボスになるのではと噂された男だった。男の手には煙草があり、多分、彼はそれを自分の眉間に押し付けたに違いなかった。
 モレッティは今一度眉間を指先で払うと、急に脱力して短い髪をくしゃくしゃと掻き回した。シャマルが煙草を勧めた。モレッティは躊躇いつつそれを手に取り、男の、毛むくじゃらの癖にやたら優美な動きをする手から火をもらう。ジッポの蓋を閉める音が、やけに澄んで響く。
 一口吸い、肺の奥から息を吐き、モレッティはネクタイを緩めた。
「いや、本当に…」
 ほとんど独り言のように彼は呟いた。
「今度こそ死ぬかと……」
「お前の商売だ。いつものこったろ」
「以前お会いしたのは三年以上前でしたか? ここんとこね、私、真面目に働いてたんですよ。月給もらってたんです」
「何だ、足洗う気だったのか」
「いえ、普通に憧れて」
 シャツのボタンを一つ、二つ外す。息が通る。モレッティは深くまで煙を吸い込む。
「会社行って、女の子とデートして、結婚して、子供できて、って。こんな体質だから手に入らないだろうと思ってたんですよ、そういう生活。だから憧れましてね」
「くっだらねえ」
「はい。死にそうでした…」
 煙草の匂いは酷く肌に、そして身体中に馴染んだ。それが心地よかったので、長い沈黙にも気づかなかった。
「…で、どうするよ」
「え?」
「このまま死亡診断書にサインもらうのか」
「ああ、死体として生きる、ですか…」
 モレッティは短くなった煙草を掌に押し付けた。熱い。感触が分かる。とても熱い。煙草の熱は何度だったろうか。松明と同じようなものだと聞いたことがある。
「生きてるんですよねえ…」
 隣を見ると、ストレッチャーに軽く腰掛けた男は携帯灰皿に吸殻を入れたところだった。意外に道徳的な、とモレッティは思った。そうだ、殺され屋が霊安室に運ばれるのを黙って見ていない、思いの外、道徳的な男。
「これからのことはですね、考えてないんですが」
「逃がしてやってもいい。五秒で決めろ」
「目下の、短期的目標が、今、決まったんですよ」
 それを聞いて鍵を手に立ち上がったシャマルの腕を、モレッティは掴んだ。
「…おいおいおいおい、お前さんも知ってるだろうが。俺はな、男に触るのも触られんのも…」
「ちょいと、あんたとやりたくなった」
 手から鍵が滑り落ちた。煙草をくわえていたなら、ぽろりとこぼれただろう。口が半開きで、見開かれた目があっけに取られていた。そして未知のものへの恐怖。
「…おっと、トライデント・モスキートは困ります」
 モレッティは相手の両手を掴む。シャマルの顔がみるみる歪む。宇宙人を見る目から、明確に敵を見定めた憎悪の目になる。
「ふざけんな」
「あんたみたいな殺し屋に、おふざけでこんなことが言えますか」
「お前みたいな死にたがりだったら言うかもなあ」
「生憎、私のは体質で。死にたがりではないんです」
 手の中で、シャマルの腕が鳥肌立っているのが分かった。モレッティはおかしくて笑う。
「本当に、そんなにお嫌ですか?」
「お嫌ですねえ、死ぬ程!」
「五分ほど尻を貸していただければ」
「お早いこった。地獄に落ちろ!」
 モレッティは笑いながらシャマルの身体を暗い壁に押しつけ、唇を押し重ねた。湿った匂い。微かに腐臭。これでいい、と思う。これがいいと思う。今なら殺されても文句はない。おふざけではなかった。シャマルとやれるなら、更に言うことはなかった。死んだように生きる最初の日の、祝福にも似た幸運だと思った。罵られ、殴られるのをなんとか阻止し、引っ掻かれるのを甘んじて受けながら、今死んでも、この為に生きたと審判の席で胸を張って言えると思った。
「尻とか、ふざけ……、う、あっ…」
 その憎しみ交じりの掠れ声を聞いた時、モレッティは「生きてて良かった」という、時々聞くなんとも陳腐な科白の真実味を噛み締めた。

 煙草は自分のスーツの胸ポケットにも入っていたのだ。シャマルに勧めると、地獄の底から見上げるような目で言われた。
「死ねよ、マジ死ね。お前、今すぐ死ね」
「ひどいなあ」
 一応、その願いを叶えられる旨を伝えると、面倒くせえから死ぬなと言われた。
「やばい、あんたに本気で惚れそうだ」
「はあ?」
「死ぬななんて言われたの、初めてですよ」
 シャマルは青い顔をして、一口、煙をのんだ。モレッティは照れ隠しにまた、髪をくしゃくしゃと掻き回し、こっそり笑った。





タイトルはフィッツジェラルドの小説云々ではなくって、あの「生きているって素晴しい」っていう嘗てのCMの方です。汗をかくって素晴しいー、ギャッツビー。