フリア




 ビアンキが深紅の薔薇の花束を抱え、仁王立ちになって睨みつけている。この瞬間、怖気をふるうほど美しいという言葉は地上で唯一人、彼女の為だけにあった。
 黄昏の十字路に集うのは男達、女達。世界のどこへ行っても見られるようなありきたりなロマンスと、ありきたりなムードと、酔いの賑わいとさざめきとが深い紫色の空の下、路地にひたひたと満ちている。路上の役者はそのほとんどがエキストラで、ありきたりな恋と別れのキスと酒と冗談を楽しんでいたが、内二人ばかりは、ドレスの肩から覗く毒サソリの針に射竦められたかのように硬直し、動けなくなっていた。
 自然、暗転の気配。接吻の唇は乾き、酔いの熱から醒める。エキストラは彼らを遠巻きに流れ去り、それぞれ路地の闇にフェードアウトする。そしてライムライトが照らし出すは三人となり、酒場が音を立てて扉を閉めた所で、舞台は完全に明け渡された。
 舞台に取り残された二人の男。酔いの匂いをまとわせた男はスーツで決め、珍しく髪を後ろに撫でつけている。もう一人の男の格好は奇妙で、やはり男であるその体格は隠せぬのに、赤いイブニングドレス、毛皮に、ブロンドのかつらに、真珠の指輪。そしてドレスより鮮やかなルージュの赤。二人は腕を組み、毒サソリの呪縛に囚われたまま、人形のように立ち尽くしていた。
 スターリングは赤い唇を歪めた。

          *

 ボンゴレの所有するカジノの一角が急に騒がしくなり、頭上で何やら怒声が飛び交ったが、隅でカードに興じているヒットマンは視線もくれず、手札と老いたディーラーを相手にしている。しかし激しくなる怒声と悲鳴と、そしてバタバタと人の倒れる音は、確実にこのヒットマンを目指して近づいてきていた。
 やがて周囲は静まりかえり、ヒールの足音だけが近づいてくる。異様な臭気と、物の崩れ落ちる不吉な音がしたと思うと、最後まで残っていたディーラーもとうとう泡を吹いて倒れた。
 足音が止んだ。沈黙の中で、ヒットマンは手札を腐れ崩れ落ちたテーブルの上に捨てた。それもまたぶつぶつと泡を立てるそれに触れた途端、黒く変色し、チョコレートのように溶ける。ヒットマンはスツールを回転させ、惨劇の引き金と対峙した。
「私はあなたを殺してしまうかもしれないわ」
 ビアンキは深紅の薔薇の花束を抱え仁王立ちになり、一言、言った。
 リボーンは顔を上げ、ビアンキの目の縁に湛えられた涙を見て、唇で、微かに笑った。
「あの医者じゃなくてか?」
「あなたよ」
「あの殺され屋じゃなくてか?」
「あなたなのよ」
「俺を?」
 ビアンキは両手を広げる。
「来て、リボーン」
「来て?」
「抱きしめてあげる」
「抱きしめる?」
「そして殺すわ」
「俺を?」
 薔薇の花に顔を埋め、ビアンキは呻く。
「愛しているわ」
「俺を?」
「苦しいくらい好きよ」
「俺を?」
「憎いわ、大嫌いよ、愛しているから」
「俺を?」
 長く伸びた呻きは、嗚咽に変わりドレスの肩が震える。
「こんなに愛している」
「誰を?」
「リボーン、私はあなたを愛しているのに」
「愛しているのに?」
「心から愛しているのに」
「ビアンキ」
 リボーンは優しい仕草でビアンキから薔薇の花束を奪い、涙で汚れた顔にキスをした。唇のルージュを拭う。流れた黒い涙を拭う。そして目蓋の上に優しくキスを落とす。
「お前は四番目の愛人には勿体ないな」
「リボーン…」
「愛してるぞ、ビアンキ」
 その一声が背中を押したように、ビアンキは蹌踉めき、走り出す。ヒールを脱いで、腐れ落ちた床を踏む。黒く汚れた足の裏を見送り、リボーンはようやく身体を傾がせる。毒気と腐臭に満ちた床の上で、最後の力を振り絞り携帯電話で医者を呼んだが通じなかった。天国の門をくぐったのは、向こうが先だったらしい。赤い薔薇に包まれたヒットマンは、にやりと笑い、最後の幕と帽子を自分の顔の上に伏せた。

          *

 モレッティはライムライトに照らされ、佇んでいる。女の制裁を真正面から受け止めた医者は既にサイレンを高々と鳴らす車に乗せられ、連れて行かれてしまった。彼は一人、舞台の上で待っている。スターリングが返ってくるのを待っている。赤いルージュ、ブロンドのかつら。指は真珠のリングで飾り、ドレスの赤も、毛皮の値段も、めかしこんだ後家の変装には見合っていた。パートナーも倒れ、今更、この仕事が続くはずもないのだが、しかしモレッティは、その姿のまま、石畳の道の真ん中でライムライトに照らされ、待っているのだった。
 両脇の建物は静まりかえっている。皆怯え、覗く様子もない。そうだろう。もうすぐ復讐の女神がやってくる。裸足の足音が駆けてくる。ヒールを両手に握りしめている。その腕が大きく振られる。尖ったピンがこめかみを掠る。もう片方が飛んでくる。額に当たった。血が流れる。
 僅かに霞んだ視界の中、両手を空にした女神が、化粧も落ち、ドレスもボロボロなのに、やはり怖気をふるうほど美しい、世界で唯一人の存在として立っている。
 モレッティが死を覚悟した次の瞬間、ビアンキはその両手で男の身体を抱きしめ、熱くキスをした。





2008.9.28 ギャグなのだろうか。