真夏と歓喜の歌




 長く日本にいたせいか、夏に聞く第九は不思議な気がしてしまう。ランボが第九を聞いて思い出すのはツナのママンの手のぬくもりと、日本の商店街のイルミネーションと、クリスマスケーキだ。あと漫才のスペシャル番組。
 古い石造りのホールの床は磨き抜かれていて、三歩先を行くリボーンの後姿も鏡のように映る。それをランボは踏もうとするけれども、そのたびに黒の中折れ帽も、緊張を解かない肩も、すっと逃げて、ランボの足はただ石の床を硬く踏む。こつり、と音がする。
 席は一番後ろから数えた方が早い。彼ならS席でもバルコニー席でもどこでも取れそうなものだったが、気にしなかったのだろうか。隣同士の席に腰掛け開演を待つ。
「リボーン、さ」
 隣の男は帽子を脱ぎ、膝の上に乗せたところで、視線でだけランボに応えた。
「こういうの久しぶり?」
「まあな」
 そこから先、尋ね返されず、ランボは自分で、オレ何年ぶりかなあ、と言いながら指を折る。
「お前は毎年、お前んとこのボスと一緒に来てんだろーが」
 リボーンは前を向いたまま、冷たい顔で、八ヶ月ぶりだろ、と言った。
「…よく知ってんね」
「オレをなめるな」
 なめてないけど、と思ったがランボは口を噤んだ。
 コンサートを聴いて、それからワインの美味い店に行く。ホテルの部屋は取っていないが、リボーンはイタリアといわず世界中に隠れ家を持っているらしいから(いつかツナが数字の連なる書類を掴んでボヤいていた)心配する必要はない。
 不意に、肘掛の上の手の甲が抓られた。ランボは慌てて手を退ける。当たり前のようにリボーンが腕を置く。舞台上には演奏者が次々現れ、調弦の音が響いてくる。ランボは背筋を伸ばし、膝の上で軽く指を組む。
 懐かしい音。それが静まり返り、潮のようにうねり出す。何度も聞いた旋律を、ランボはそのたびに新鮮に思う。感動の再現ではない。繰り返しではない。初めて出会う。去年聞こえなかったものが見える。去年見えなかったものが聞こえる。音は感情を一つ一つ抱き上げ、縒り合わせる。それが最後に感動になる。違う景色、違う思い出を経て、そこへ至る。
 辿りつく。
 昇りつめる。
 喝采にまぎれて涙を拭いた。リボーンは冷たい横顔の、ほんの目元だけをとかして拍手をしていた。なかなか立ち上がらなかった。人影もまばらになったところで席を立ち、ゆっくりと、余韻を引き摺るように歩いた。
 タクシーに乗り込んでも、二人は黙っていた。肘さえ触れ合わず、視線も合わせず、耳の中に残る感動の残響を響かせていた。リボーンは帽子を目深に被る。ランボは長く伸びた髪で表情を隠す。
 ワインを間にようやく視線が合う。グラスを触れ合わせ、視線を合わせたまま赤い液体を呷る。今夜は何も言葉を交わす必要はない。このまま飲み明かすだけで充分だ。お前がそう考えていることくらい、分かるよ、とランボは思った。オレをなめるなよ。





2010.8.15