歌にも有名なソレントから海岸沿いを船で東へ五十キロもゆくと、豊かな緑色の山の裾
に白く輝くものが見え始める。南中した陽に照らされて輝くそれは犇きあうように建てら
れたヴィラと呼ばれる別荘で、ビアンキは幼女の頃に与えられたドールハウスを我知らず
思い出す。遠目に望む街は空と、同じ色に輝く海に挟まれていよいよ絵画的な美しさを人
々に与え、同じくデッキからそれを眺める何人かが感激の嘆息を漏らしたが、ビアンキは
弟の隼人さえいないその退屈な記憶を欠伸と一緒に奥歯で噛み砕いた。
 変わっていない。アマルフィの街は、美しく、穏やかで、モザイクに飾られたドゥオー
モの静謐が街に古色を刷き、古都、観光地、ありがちな言葉が似合うだけの街だ。平和で、
退屈な。遠目に眺めているだけなのに、どこか不機嫌になる。身体の奥が重くなる。ビア
ンキは腹の上に手を置く。
 半年前、弟の隼人が家を飛び出してから退屈な日が続く。心配した父が気晴らしにと送
り出してくれたここも、かつて残したのは、父と、着飾った男たち、女たち、同じように
着飾らされた道化のような自分の記憶だけ。遊歩道の下のビーチでさえ、人が多いからと
泳がせてもらえなかった。密かに水着を用意していたのに。
 護衛と監視のためこっそりついてきた父の部下たちは、ビアンキの勧めたワインで皆使
命を放棄したが、果たして自由になったのだろうか。船が着けば、行く場所は父のヴィラ
しかない。彼女は何も持っていない。財布も、カードも。それらは全て自分が再起不能に
させた父の部下の役目だったからだ。しかし、一文無しだと何か困ることがあるのだろう
か。今朝から腹が重く感じるこの身は、荷物一つ減るごとに軽くなる。
 船がゆっくりと波止場に着く。ビアンキは小さな鞄を一つ手に船を降りる。その中には
新しく買った水着が入っている。

 海岸線の遊歩道は、右にヴィラ群を、左手にビーチを望んで伸びる。思いの外、人が少
なかった。今、歩道の先にも人はいない。ビアンキの後ろから歩くものもいない。ヴィラ
は無人のように静まり返り、窓にも人影は覗かずただ黒く抉られたような影が濃く落ちる
ばかりだ。しかし、とビアンキは左手を遠くまで望む。穏やかに打ち寄せる波。無人のビ
ーチ。邪魔なパラソルやボートの影もない。これが望ましい。これが本当のバカンスだ。
 露天のアイスクリームが溶けて流れ出している。レモンが箱に詰められたまま茶色に腐
蝕し、微かな腐臭が漂っている。いや、腐臭はレモンの腐臭ばかりではない。ビアンキが
遊歩道を歩きながら上機嫌なのは理由がある。この街は腐臭が漂っている。八月も終わり
の木曜日、人っ子一人いない街を静かに腐臭が漂っている。
 この街には死体がある。
 ビアンキはそれを探して歩いている。バカンスは平和なばかりではつまらない。日常に
傷を入れるほんのちょっとの何かが欲しい。ビアンキは箱の中からレモンを取り上げる。
腐蝕した半分が蕩けるように崩れ落ち、歩道に落ちて水溜りのようにぐずぐずと溶けてゆ
く。ビアンキはそれに振り向きもせず、レモンに歯を立てた。零れた果汁が顎から喉へ流
れ落ちる。ビアンキは舌を出して唇を舐めると、再び歩き出した。
 カウチに気づいたのは遊歩道も終わりに近づいたときだった。それはまるで影さえない
ようにビーチに横たわっていた。ビアンキは残ったレモンを放ると、ビーチに下りた。赤
いカウチに男が横たわっている。男、のようだ。この暑い中、頭にニット帽が被っている。
着ているスーツは黒のように見えるが、まるで影の落ちている気配がない。
 死者に影はない。けど、死体にはあるわ。
 ビアンキは怖じもせず、それに近づいた。それは確かに死体のように見えた。頬を抉る
銃創。そこからとろとろと流れ出す血が、白いカウチを赤く染めている。手元から落ちた
らしいボトルが砂に半分埋もれて、砂に染みた中身はほとんど蒸発してしまっていた。
 この死体なのだろうか。
 ビアンキは傷口に顔を近づける。そこからは血が流れ出続けている。鼻の中に纏わりつ
くような匂い。足元をのろのろと流れてゆく腐臭。見開かれて太陽に焼かれ続けている眼
球。息をしない唇。ビアンキは手を伸ばし、手で押す。目を閉じて弾力を確かめる。
「お嬢ちゃん」
 低く囁く声が聞こえた。
「伏せるんだ」
 ぐい、と腕が引かれ、ビアンキは男の身体の上に倒れこむ。同じ瞬間、確かに遠くで銃
声が響き、足元の砂に銃弾がめり込んだ。
「まだ、動かないで」
 ビアンキはもう確信していた。これは死体ではない。死体を装ったどこかの工作員だ。
額に男の頬の傷口が触れている。温かく流れ出す血が額から目尻に流れ込む。ビアンキは
目を閉じて、男の胸に倒れ掛かったまま、ぐったりと身体の力を抜いた。その調子、と低
い声が少し嬉しそうに囁いた。
 波の音が寄せては返す。それ以外に何の音もない。観光地らしいざわめきも、建ち並ぶ
店の賑わいも、バカンスの会話も何もかも。街に満ちているのはドゥオーモの静謐ではな
い、死者の沈黙だ。腐りゆく死者の倦んだ沈黙だ。ビアンキは微かに唇の端を持ち上げて、
囁く。
「あなた、誰?」
「モレッティ」
「それが名前?」
「そう」
「これが仕事なの?」
「そう」
「マフィアなのね」
「そうさ」
 髪を焼く陽の光が弱まる頃、モレッティと名乗った男は、もういいよ、と囁いた。ビア
ンキは立ち上がる。脱力して男の上に倒れているだけだったが、とても疲れた。モレッテ
ィは立ち上がると伸びをし、関節を一つ二つ鳴らして、溜め息をついた。
「やれやれ、酷い目に遭ったね」
 明るくそう言いながら、懐からハンカチを取り出す。それを頬の傷に当てるのかと思い
きや、ビアンキの額を拭った。血はもうだいぶ乾いてしまっていて、モレッティがハンカ
チで撫でると、パラパラと乾いた赤い欠片が目の端を掠めて落ちた。
「せっかくのバカンスに来たんだろう?」
「こういうバカンスに来たの」
「こういう?」
 血の染みたカウチ。空っぽのボトル。死んだように静かな街と、レモンを腐らせる腐臭。
「ドゥオーモを見学して、ピッツァとレモンチェッロに舌鼓を打つバカンスは?」
「退屈だわ」
「好きな男の子と店で土産物を選ぶバカンスは?」
「下らない」
「ふうん。そしてこの街に来たのか」
「そうよ」
「誰もいない街。誰もいないビーチ。死体が転がっているような」
「そうよ」
「お嬢ちゃん」
 モレッティは背を屈めると、ビアンキの目を覗き込んだ。
「こんなところにいては悪魔にとり憑かれる。帰る道を、失うよ」
 亡霊が王女にかしずくようにモレッティは言った。
 ビアンキはふくよかな唇を綻ばせる。これはバカンスじゃない。ここは退屈な街ではな
い。抉られた頬の傷を手当てもせず自分の前に跪く男がいる。山の陰に陽が落ちようとし
ている。ビーチはすっと山の影に隠れる。ビアンキは腹の上に手を当てた。身体の奥で凝
っていたものが、流れ出したように気持ちが良かった。
「行きたいところならあるけれど、帰りたいところなんてないの」
 ふと、何かが脚に巻きついたかのようだった。モレッティが、あっ、と小さく声を上げ
た。ビアンキも自分の足元を見た。スカートから伸びる脚の内側に、一筋、二筋と血が流
れ落ちていた。モレッティは驚いてビアンキを見上げる。しかしビアンキは微笑んだまま、
モレッティを見下ろした。
 次第にビーチが冷えてゆく。山の向こうに完全に日が没し、空の色が深い藍色にその色
を変える。
「ファミリーに連れてゆけ、と?」
「フリーでいるわ。折角一人になれたんだもの」
 モレッティは諦めたように嘆息した。ビアンキは嬉しかったので、笑みを満面に広げた。
モレッティは立ち上がると、膝の砂を払い、帽子を被りなおして、ビアンキに手を差し伸
べた。ビアンキはその手を取る。モレッティの所作は思いの外、紳士的だった。
 さくさくと砂を踏みながら、街へ向かって歩く。
「あんたがするべきことは、まず、風呂に入ることだ」
「ええ。早く入りたい」
「それから新しい服と下着」
「お金は持ってないわ」
「本当に?」
 モレッティは右上を見上げながら、口の中でぶつぶつと財布の中身を確認する。
「そんな上等な服は買えないぜ」
「普通のがいいわ。イケてるのね」
「それから街を出て、あんたのお父さんやお母さんから見つからないくらい遠く離れて、
それから仕事を始めなきゃならない」
 モレッティは頭一つ下にあるビアンキの顔を見下ろすと、少し意地悪そうに言った。
「バカンスはその後になるが?」
「大丈夫。水着はもう用意してあるの」
 ビアンキは小さな鞄を持ち上げてみせる。モレッティは、ビアンキの顔から視線を天空
に向け、うーん、と唸りもう片手で目を覆った。
 指の隙間から目がビアンキを見下ろす。ビアンキは微笑んだまま小首を傾げてみせる。
「ああ、もう!……少しだけだぞ」
「ええ」
 その瞬間、ビアンキはぱっとモレッティの手から離れ、海へ向かって駆け出した。走り
ながら服を脱ぎ捨てる。転びそうなサンダルを蹴飛ばし、スカートを空に放り投げる。遥
か後ろで、モレッティが死体の役を演じていたカウチに腰かけ、頬杖をついて見ていた。
 深い藍色の空に銀の星が輝きだす。夜がやってきたが、ヴィラの建ち並ぶアマルフィの
街は相変わらず静かだ。ビアンキはバカンスの中、腐臭を身体に纏わりつかせ、新品の水
着に着替える。私のバカンス。私だけのバカンス。
 この夜から、毎日。

 一月後、毒サソリ・ビアンキという名の殺し屋がイタリアに姿を現す。






2004年11月29日、『OIL』のトリさんが踏んでくださったキリバンリクエスト。
「モレッティ+ビアンキ」だったので、もう少し若年のころの話を。
過去の捏造もはなはだしい話ができあがりました。

モレッティの口調をどうしようか、迷いましたが、
丁寧な口調はおそらくボスや目上の人間相手だけだろうと思い、くずしました。
イメージ、大丈夫でしょうか。

いえ、それ以上に2ヶ月もお待たせしてしまい、大変申し訳ありません!
どうぞ、お納めください。

2005.1.27 春鮫


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