キャヴァリア




「じゃあ、元気で」
 触れたのだとは解らなかった。なにか柔らかな毛糸が肩を掠めたのかと思った。しかしモレッティの手は今まさにビアンキの肩から離れ、夕景の中でゆるく振られたのだ。
 皆が恐れた。ビアンキに触れる男はいなかった。こんなに何気なく、邪気も、躊躇いもなく触れる手を彼女は知らなかった。父は触れる必要がなかった(所有物と解りきっているものにベタベタと触る男ではない)。弟は恐れた(その恐怖以上の愛情を、彼女は弟に対して持っていたのに)。だからモレッティの手が、触れたことにさえ気に障らない手が、彼女には不思議で。ほんの少しだけ不思議で、別れを引き止めてしまった。ねえ、という短い言葉に引き止められたモレッティは夕陽の色に染まり始めた波止場で振り向いた。
「何ですか?」
 初冬のヴェネツィアで再会したモレッティは、既にビアンキに対して砕けた口調を用いなかった。再会までの季節の中でビアンキは思春期を脱した女の肉体と、殺し屋としての地位を手に入れ、リボーンという名の男の愛人となっていた。あの夏、避暑地でモレッティが肩を抱いた少女の姿はない。当然と言えば、当然のことだった。
「この街で会うとは思わなかったわ」
 引き止めた理由はなかった。だから彼女は心の空虚に彷徨う言葉を拾い上げて舌に乗せた。自分の言葉ではないようだった。
 しかし、モレッティの返した言葉はビアンキの予想外のものだった。
「この街は、好きですからね」
 その言葉に彼女は何故か動揺した。
「どうして」
 小さな声で尋ねると、彼はまったく自然にビアンキに近づき、すれ違い、壁伝いに少し歩くと路地の一つをひょいと覗き込んだ。
「ほら、マリアが」
 路地に小さな聖母の姿が刻まれている。
「祈るの?」
「祈りますよ」
「本当に死んでしまいませんように、って?」
 モレッティは笑って答えない。
 船の出る時刻だった。殺され屋はすみやかにこの街を出る使命をおっていた。二度目の挨拶ですが、と彼はビアンキの隣に立った。
「縁があれば、また」
 ビアンキは手を伸ばした。白い手が夕焼けの色に染まり、紅潮しているかのようだった。服を強く掴むとモレッティがよろめき、シャツのボタンが一つ弾け飛んだ。モレッティの見開いた目には応えず、節目がちにネックレスの一つを外す。首にかけてやるのが恥ずかしくて、胸に押し付けた。
 モレッティは黙ってそれを首にかけた。十字架の細工に用いられた金が夕陽を反射した。彼は、自分の行動に戸惑い顔を覆うビアンキの手を取り、その甲に軽く唇を触れさせた。
「祈りますよ、次の街でも」
 ビアンキは黙って俯き、モレッティの靴を見る。踵を返し、視界から消える靴を追う。キスを受けた手をぎゅっと握りしめ、小娘のように「私はマリアじゃないわ」と呟いた。





2006.11.2 掲示板にて/2008.10.11 若干加筆