フィーネ・デル・モンド/つねる




 暮れなずむ空の、遥か上空に浮かぶ雲がえもいわれぬ鴇色に染まり、太陽の沈んでしま
った街にほのかな明かりを落としていた。リボーンはコンクリートの床に腰を下ろし、空
から落ちるほのかな鴇色に染められた医者の顔を見下ろしていた。ビルは真っ白に塗られ
ていた。雲と同じ色に染まった屋上は、そのまま中空に浮いているかのようだった。医者
は軽く寝息をたてて眠っていた。
 自分は悲しみを知るのが遅かったのだろうか。生れ落ちた瞬間から、それとは手に手を
取って歩いてきたつもりだった。医者の手に取り上げられた瞬間から、この手の中には悲
しみを掴んでいると思っていた。だが、医者の寝顔を見下ろし感じている悲しみは一度も、
おそらく一度も感じたことのないもので、こんなに年をとったことを後悔したことはない。
 この男と会うのは血の匂いに噎せ返る修羅場か、消毒薬の匂いにまみれた部屋か、でな
ければ飲んだくれのねぐらと相場が決まっていたし、それ以外にあるとは思わなかった。
まさか夏の暮れなずむ空の下でこんなにも穏やかな寝顔を見せられるとは思ってもみなか
った。自分はヒットマンなのに。二十年間トップを独走し続けたヒットマンなのに。
 五十を過ぎた肉体からはかすかな軋みの音が聞こえた。暗殺者の過去、女好き、世界的
指名手配、どれもが煌びやかな、今尚錆びぬ伝説だが、しかし老練の言葉を冠するには早
い気がする。しかししかし。
「リボーン」
 寝ぼけた声が呼んだ。リボーンはじっと見下ろしながら、シャマルが目を開いて自分を
見つめていることに初めて気がついた。
「なんだ、難しい顔して」
 なんと穏やかな声だろう。リボーンは顔を伏せ、その上から帽子のつばを引き下げる。
まだまどろみから抜けきっていない医者のゆるやかに笑う声が聞こえた。リボーンは膝を
抱いて、顔を伏せた。
 ふ、と医者が笑いを納めた。
「可愛い真似、するなよ」
 気配が近づく。
「大人にもなって、よ」
 くるぶしを柔らかく掴まれ、足首に口づけの触れるのが解った。
 リボーンは顔を上げ、身体を退いたがシャマルは手を離さなかった。すそから覗く足首
に柔らかく何度も口づけし、片目を瞑ってリボーンを見上げた。
「襲いたくなるだろ…?」
 医者はゆっくりとリボーンの身体を押し倒し、上にのしかかった。ヒットマンは声一つ
上げることができず、されるがままに倒される。医者の頭の向こうに鴇色の雲が浮かんで
いる。雲は端から夜に侵蝕され始めている。薄い青、濃い夜の青空を背にした灰色へ。リ
ボーンは息を止め、視線を空へ逃がす。
 気づけばシャマルは笑っていた。声を立てて、低く、継続的に笑っていた。
「本気にするな」
 医者の、思いの外優しい指が頬を引っ張り、つねる。
「子供じゃあるまいし」
 どれだけ引っ張られてもリボーンは抵抗しなかった。医者は笑いながらリボーンの横に
転がり、ごろりと仰向けになった。今夜は暖かいそうだ。隅に設置されたエアコンの室外
機が回転し、ぬるい空気を吐き出し始めた。空はすっかり暗くなり、鴇色の雲はもう見え
なくなっていた。






二十歳をすぎ、ぐるりと一周して子供になったリボーン。


お題配布元→ボコ題

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