14沢田はハンカチ一枚軽くなった身体で列車の中を歩いている。獄寺の身体には、触れら れなかった。ハンカチ一枚を顔にかけて、そのまま背を向けた。 空っぽの座席を過ぎ、食堂車に入る。そう言えば、目覚めてから何も口に入れていない。 水の一滴も飲んでいない。厨房に入ると、ペリエのビンとグラスがトレーの上に載ってい た。沢田はペリエを開け、口づけにそれを飲み干した。水が舌先から全身に染み渡る。額 の上で電気が揺らぐ。沢田は空のビンを元通りトレーの上に戻し、替わりにグラスを取り 上げた。グラスの足を中指と薬指の間に挟み、ゆらゆらと揺らす。冷蔵庫にはワインが入 っていた。舌に合いそうなものを一本拝借し、厨房を出る。 食堂車を過ぎると寝台車が続く。沢田はその一つ一つの部屋に丁寧に鍵をかけた。無人 の部屋を扉で封じる。鍵を落とす音は、解錠する音のように心地良くはなく、代わりにノ イズを消してゆく。 やたら散らかった部屋。黒いコートのかけられた部屋。トマゾやヴァリアーまで乗って いるのかと呆れた。施錠の音。飲みかけのグラスと、空のグラスの転がった部屋。床には 酒の作った染み。誰の部屋だか分かる。施錠する。施錠の音がシャッターのように、その 光景を一枚の絵に定着させる。 リスの着ぐるみ。シンデレラのドレス。シーツのめくれ上がったベッド。山本の噛み殺 した悲鳴。銃声。獄寺の叫び。爆音。血の匂いさえしない静謐の部屋。割れた窓ガラス。 血の染み。羽根を吐きだし尽くし、ぺしゃんこになった枕。答えの見つからない狂騒。 沢田の目の前を霞のように覆っていた混沌は、今や一切姿を消し、沢田は唯独り列車の 中に佇んでいる。もうこの先には山本の言っていた機関部と運転席のある先頭車両だけだ。 沢田は一番最初に目覚めた席に座った。目の前の座席には、ロシア語の新聞が置き去りに されていた。 沢田は背もたれに身体を預けた。しかし完全に弛緩した訳ではない。背中を軽く触れさ せ、呼吸は意識せぬほど静かに、視線は、最初そこに座っていたリボーンの残像を見てい た。 「バースデイ・プレゼントだ。喜べ」 呟く自分の横顔が窓の闇に映っているのが、視界の百八十度の端に見える。 「バースデイ・プレゼント」 腕を持ち上げる。腕時計の針は午前0時を目指して、刻一刻と時を刻む。 沢田には昨日の、リボーンの誕生日を祝った記憶がない。 リボーンは我儘だ。自己中心的で、スパルタで、イタリア屈指のヒットマンだ。早撃ち の腕は0コンマ秒以下。トレードマークは黒い帽子に黒いスーツ。得物はCZ75セカン ド。庇にはいつもカメレオン。 沢田は左手のグラスをくるりとひっくり返し、正位置に戻す。 真正面に、自分の顔が映っている。リボーンの残像は消えていた。 脇に挟んだままだったボトルが床の上に転がった。沢田は、その音に目覚めたかのよう に瞬きをした。屈み込んでボトルを取り上げる。コルク抜きがないことに、やっと思い至 った。固いグラスの口を凍った窓に二、三度軽くぶつけた。凍てついた硬い音した。流石 に、乱暴が過ぎるだろう。結局、ボトルはロシア語の新聞の上に鎮座した。 左手にグラスを弄び、沢田は時計の針が重なるのを待つ。長針と短針、二つの針が重な り合う午前0時を待つ。 あと一分。 三十秒。 十秒。 「リボーンは死んだ。ランボも」 ふ、と明かりが消えた。小さな橙色の光が、天井に点々と灯っている。沢田の顔は一瞬 闇に沈み、やがて順応に従ってグラスの上に、浮かび上がる。少しだけ、笑っているのが 自分でも不思議だった。そして、気づいた事実に、不思議ではない、と思い直した。 橙色の明かりがグラスの中にも落ちる。小さな光がガラスの曲面の上を揺らめく様は、 蝋燭の火の揺れるそれに似ている。 「ハッピー・バースデイ、俺」 沢田はグラスに向かって囁いた。 そして、グラスの中の小さな火を見詰めたまま、声をかけた。 「入っておいでよ、獄寺君」 連結部の扉が音もなく開いた。小さな明かりに照らされた人影は、コルク抜きを持って いた。 勿論だ。獄寺は沢田と出会い、己の行為の中に優しさを得た。彼はいつでも、沢田のこ とを考えているのだ。 拾遺 |