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 客車の入り口で沢田は立ち止まった。赤ん坊のリボーンが消えた扉が目の前に、冷たい
沈黙と共に閉ざされている。
「ローラー作戦は実行されてなかったんだ」
 沢田は懐から取り出した拳銃の弾倉を確認しする。まるで当たり前のように手指が動い
た時、沢田の中で何かが目覚める。自分の名。自分の血。記憶。経験。扉の嵌め込みガラ
スに映った自分の目。後ろには獄寺の姿。沢田は腰から鍵の束を外し、その手に握った。
鉄の輪の冷たい感触が、神経をより鋭敏にする。
「今度こそローラー作戦をやる。全部の部屋を調べる。全員から話を聞く」
「はい」
「獄寺君」
 振り返り、真正面から獄寺を見つめた沢田の左手には銃身が握られていた。銃口は沢田
を、銃把は獄寺を向いている。
「俺、獄寺君のこと信じるよ」
「……はい」
 獄寺は沢田の銃を受け取り、懐に仕舞った。
 列車の床は相変わらず細かに震えている。しかし沢田の背には、もう怯えの影はなかっ
た。彼は一呼吸、息を吸い、扉を開いた。
 そこに伸びている景色は先ほどと全く同じだった。赤ん坊のリボーンの姿が消えてしま
った時と同じ、全くの無人の通路。仄暗い明かり。閉ざされた客室の扉。一番手前の部屋
の前に立つ。部屋番号は十一。
「ハルの部屋です」
 獄寺が囁いた。沢田は右手を持ち上げ、穏やかにノックした。しかし返事はなかった。
しばらく待ち、もう一度叩く。しかし定期的に車輪の鳴る音や、吹雪の遠い木霊の他、何
も聞こえなかった。
「ハル」
 沢田は声をかけた。しばらく黙って扉を見つめていたが、やがて鍵束から十一の番号の
ついたものを選り出す。
 解錠する音はやけに心地良く聞こえた。
 ベッドの上には服が二着。普段着と、それともオーロラの下で着ようとでも思っていた
のか、まるでシンデレラのようなドレス。開けっ放しのトランクからは、洋服の他に、お
菓子や日本製のやたらに愉快なパーティーグッズが顔を覗かせていた。
 沢田は部屋の中に踏み込む。
「ハル」
 名前を呼ぶ。しかし、そこには誰もいない。
「ハル」
 もう一度、呼びながら、ベッドの下を覗き込んだ。獄寺も部屋に入り、窓枠や鍵を確か
めた。
 沢田はベッドの上に投げ出されたドレスのレースにちょっと触り、それからトランクの
中の鼻眼鏡を取り上げた。仮装セットもドレスも放り出したまま、ハルの姿は消えていた。
「隣の部屋は?」
 沢田はこの部屋の有様に対する疑問ではなく、そう口にした。
 隣はイーピンの部屋だった。そこにあったのは小さなスーツケースが一つだけ。枕元に
は小さなヌイグルミの人形が置かれている。いつか笹川了平がくれたと聞いたものだ。そ
して人影はない。
 沢田は次々と客室の扉を開けていった。京子の部屋だったはずの十三号室。そしてビア
ンキ、バジル、フゥ太と部屋は続く。次の車両にはヴァリアーが乗っていた筈だった。物
音一つしない客室の中に、鍵のぶつかり合う音だけが高く響いた。
 既に沢田は無言だった。名前を呼びかけもしなければ、ノックもせずに扉を開けた。か
けられたコート。毛皮。ベッドの上で開かれたトランク。スーツケース。旅行鞄からはみ
出た洋服。カメラ。無造作に置かれた銃。ナイフ。弾薬。酒。飲みかけのグラス。
 後方は座席だけの車両だった。沢田は無人の座席の間を黙々と歩いた。最後の鍵は突き
当たりの扉のものだった。二重になったガラスの向こうに夜の闇が、白い雪さえ飲み込む
闇が見えた。沢田は迷わず鍵をさし、扉を開けた。冷気と雪片が二人に襲いかかる。しか
し沢田は顔を背けず、小さく張り出した外へその身体を運んだ。
 背後から射す明かりに、過ぎ去る線路と雪がわずかに照らされ、その目に映った。しか
しその向こうは闇だった。何者の姿もない。どっきりを企むハルやビアンキの笑い声も、
クラッカーの陽気な破裂音も、紙吹雪も。雪は鋭く沢田に襲いかかり、頬や耳を容赦なく
刺した。
 急に、ある直感が沢田の頭を貫いた。沢田は踵を返すと、元来た通路を足音高くとって
返した。後ろから獄寺の呼ぶ声が聞こえたが、返事をしている暇はない。
 山本の部屋の前に来たとき、沢田は自分が番号のついた鍵を握りしめていることに気づ
いた。しかし彼は確信をもって、それを鍵穴にさし込んだ。
 解錠する音は、やはり場違いなほどに心地良く響いた。
 そこに山本の姿はなかった。ベッドはもぬけの殻。酔いの回っていたはずの医者もウォ
ッカの小瓶を残したまま消えていた。
 駆ける足音が背後で止まる。沢田は振り向いた。獄寺が息を切らせている。
「誰もいない」
 沢田はゆっくりと両手を広げ、芝居がかった仕草とは逆に酷く表情のない声で言った。
「誰も」



鳥が飛んでいたのに獣が駆けて

いたのに我が身の下らなさは





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