track 3キッチンの脇の小窓から外を見ると今にも雨の降り出しそうな空で、今夜は冷えるかもしれない。ケトル一杯に湯を沸かす。何を飲もうと考えた訳ではないが、こんな夜はポットいっぱいに湯があった方がいいだろうと思ったばかりだ。コーヒーはインスタントだが、こだわりはない。あたたかいコーヒーの一杯でも充分、一人で夜を過ごすには申し分ない。モレッティは一人の夜に満足する法を心得ている。深夜放送の映画は意外と面白いし、読んでいない本なら山ほどあるし、何度聴いても飽きないレコードも彼は持っている。 口から白い湯気が吐き出され、そろそろ頃合いかと思って不意に居間に意識を向けると、小さな、硬い音がした。かつん、とそれはカーテンに閉ざされた窓の向こうから聞こえてきた。彼はちょっと考え込む。指先だけが動いてコンロのつまみを掠るが、火は消えない。彼は椅子の背に引っ掛けていたニット帽を被り、注意深く居間に足を踏み入れる。明かりの消えた居間を横切り窓の前に立った時には、既にそこに危機がないことは分かっていた。 カーテンを開けると、自分の影の中にビアンキの白い顔が浮かび上がっていた。白い手がしっかりと雨樋を掴み、もう片手の、指に輝く指輪が、かつ、かつ、と窓ガラスをノックしていた。早く開けなさいよ、と赤い唇が動く。モレッティが鍵を開けると、彼女は男の手も借りず軽々と部屋の中へ飛び込んだ。 「また部屋の中で帽子を被っているのね」 「…どうしたんですか」 ビアンキは答えず、ソファにどっかりと、彼女にしては乱暴な仕草で腰を下ろす。 「ビアンキ?」 「久しぶりにビルなんか上ったから、疲れちゃった」 すっと彼女の白い指が伸びて、モレッティを指さす。 「え?」 「沸いてる」 キッチンからしゅんしゅんと音がする。モレッティは引き返し、コンロの火を止めた。振り返ると、ビアンキが笑っている。 「コーヒー、ちょうだい」 「インスタントしかありません」 「許してあげる」 いつもの優雅で鷹揚な許しではなく、少女のように無邪気に彼女は言った。 居間の明かりをつけようとすると、軽く振られた手が制する。 「疲れてるの」 彼女はアクセサリーを一つずつ外してはテーブルの上に並べた。白い指から、さっき窓を叩いた指輪が。飾り気を失った指がピアスを外す。チョーカーを外すために髪を持ち上げると、白いうなじが一瞬キッチンから射す光に照らされて、また隠れる。 「…どうして、じっと見るの?」 モレッティはキッチンの入り口に佇んだまま、返事をしない。 「このまま脱ぐと思った?」 首をすくめてみせると、真面目ね、と返される。 開けっ放しの窓の向こうに、その時、白いものが光った。雨が降り出した。窓の部分だけ、光を反射して白く光る。ビアンキはモノクロのノイズを背景に笑っている。 「…どうして、黙ってるの?」 モレッティはコーヒーをいれる。並べられたアクセサリーの一番最後にコーヒーを置くと、グラッツェ、と短い言葉と共に飾り気のない白い手がそれを取り上げた。 「…甘いわ」 一口飲んで、彼女は顔を上げた。 「砂糖を入れましたから」 「真っ黒なのに甘いわ」 コーヒーの香りなのに、甘いわ。ビアンキは囁いてまた口をつける。 「…ボンゴレの屋敷にいるものと思っていました」 ふふっ、とビアンキは笑う息でコーヒーの湯気を吹く。 「皆、そう言うわ。忘れてるのね、私がフリーの殺し屋だって」 「そしてリボーンさんの愛人だ」 「弟はボンゴレの嵐の守護者。どうしたの、何か言いたいことがあるみたい」 「…何故、こんなところに?」 不意にビアンキは目を細める。 「…どうして?」 モレッティは目を逸らすが、ビアンキはモレッティから目を離さない。 「私は自由よ。どこにでも行くわ。行きたい時に、行きたい場所へ」 そうでなければ、ビルをよじ登ったりしないわ。彼女の目は言う。指輪を外したりしないわ。ピアスを外したりしないわ。チョーカーを外したりしないわ。ドレスでここに駆けてきたりなんかしない。あなたにコーヒーを頼んだりしない。 「なのに、あなたったら、拗ねてるみたい」 「君が、こんな夜に来るからだ」 まるでお姫様みたいに窓から飛び込んでくるのが悪い。モレッティが胸の中で呟くと、ビアンキが急に目を伏せた。 「バースデイ・パーティーに主役がいないんじゃあ、締まらないでしょう。帰った方がいい」 「追い出したいみたい」 雨の音が滑り込む。風が吹いて、ビアンキの背景のノイズは乱れる。窓から飛び込む雨だれが床を濡らす。 「私が怖い?」 モレッティは答えない。 「私の誕生日に、私がここにいることが、そんなに怖い?」 彼は観念して項垂れる。 「ああ…怖い。人生の全ての幸福を使い切ってしまうようで怖い」 明日にも死ぬかもしれないな、上目遣いにビアンキを見ると、彼女は「バカね」と笑っていた。 「本当にバカなんだから、モレッティ。私の誕生日にそんなこと言わないで」 「じゃあ何て言えばいい?」 「誕生日なのよ」 モレッティはニット帽を脱ぎ、手の中でくしゃくしゃに丸める。 「誕生日おめでとう」 「それから?」 「………」 モレッティは居間を横切り、窓を閉める。雨音が閉ざされる。更にカーテンを閉じると、ビアンキはキッチンの明かりに照らされて、ただ闇の中に沈む白い身体になる。 「今日は冷えるみたいだ」 ビアンキの長い髪と、それのなだれ落ちる背中を見詰めて、モレッティは言う。 「お湯だけは、沸かしてる。コーヒーもインスタントならある。深夜放送の映画は面白いし、映画が嫌なら本もあるし、レコードもある…」 言葉が途切れた。モレッティは手の中のニット帽を床に捨てると、ビアンキの前に跪いた。ビアンキが見下ろしている。白い手を取り、相手の目を見上げる。 「キスをしても?」 「いいわ」 指に口づけを落とすと、不意にビアンキの手が翻ってモレッティの頬を包み込む。掌に残ったコーヒーの熱が頬に移る。 キッチンの明かりを落とし、ぼそぼそと低い声で話す。時々、ビアンキは笑い、モレッティも喉の奥で低く笑った。急に明かりの落ちた闇の中では、時計の針がぼんやりと蛍光色の光を放っている。もうすぐ誕生日が終わるわ、とビアンキは言い、息を潜める気配。時計の針が三本、真上を指して重なり、秒針が離れる。誕生日おめでとうございます、とモレッティが言う。もう誕生日じゃないわ、とビアンキが返す。ボン・コンプリアンノとモレッティは繰り返す。 「…グラーッツェ」 ビアンキの甘い囁きが闇に浸され、溶け、そしてまたひそやかな笑い声。 BGM : カサヴェテス / EGO-WRAPPIN' |