track 2




 聴覚野の端に絶えず聞こえるのはつけっぱなしのニュースの声と、カルテを捲る音だ。かさかさと乾いた音は非人格的で、永久的、自動的システムのように繰り返される。きっとカルテを捲るのは、あの腕の毛をもじゃもじゃさせた伊達男の医者ではなくて、マネキンの滑らかな白い指か、あるいはカルテが自ら捲られているのだろう。秋の落ち葉のような郷愁はなく、風の捲るような柔らかさもない。
 部屋はどこもかしこも白く、ナースの白い看護服と淡いプラチナブロンドは日の光の中に透けてしまう。時々点滴を取り替えてくれる手は、透明な幽霊のようで、優しく微笑むのも口元のかすかな陰でそれと知れる。
 夜半、息が苦しくなり、ナースを呼んだ。白い、透明な手は身体の中の痛みも掬い取ってくれるだろうと感じた。しかしカーテンを捲り現れたのは、期待にそぐわぬ、一人の男だった。
「ドクター・シャマル、男は診ないのでは?」
「お前さんに死なれても困る」
 毛むくじゃらの手が背中をさする。ちょうど、心臓の上を、鼓動を呼び戻すかのように叩く。
「どうだ、モレッティ」
 その声に、彼は自分の名前を思い出した。そうだ、俺の名前はモレッティだ。ボンゴレの特殊工作員。世にも稀な殺され屋、モレッティ。
 アッディーオを為し得る身体が並みのものでないことは、自ずから知れることだ。それは頑健なのではなく、この世の摂理において非常に不自然であることも。おそらく、どこかをつつけば脆く、本当のさよならを迎える身であろうことも。
 これが初めてではない。一度は非常に若い時代。そして今、男盛りのピークを過ぎた時、身体の全細胞が生と死の狭間で急な悲鳴を上げたのだ。
 背中を拳が軽く叩いている。人の成す音色だ、とモレッティは思った。人間の音だ。生きたものの鼓動。呼吸のリズム。本来、無自覚的に身体に刻まれているはずのそれを、もう一度覚えなおすかのようになぞる。心臓が動く。肺が呼吸する。血液は時速六〇キロで全身を巡る。
「もう…、苦しくありません」
 乾いた声で囁くと、やれやれと言うようにシャマルの手が離れた。本来男嫌いの医者であるから、そのまま立ち去るかと思われたが、存外ベッドの脇に留まり、窓を開けた。夜風がカーテンを揺らす。その向こうにちらちらと、遅い夜の、残された街明かりが点滅している。医者は懐から煙草を取り出して、窓の外へ向けて煙を吐き出した。
 モレッティは両手で顔を擦り、ゆっくりと目蓋を開けた。目蓋の裏の暗闇でちかちかと光っていた細かな光の粒子が現実の映像と重なり、霧の晴れるように消え去る。見えたのは、ベッドサイドの橙色の光に照らされた乾いた掌と、同じ色に照らし出されたシーツだ。どれもこれも、内部に暗い夜の闇をはらんで肉感的に映る。昼間は透けて見えた点滴も、カーテンも、今は夜の闇を背景に現実以上の重量のあるように見える。その向こうに佇む医者は、毛の一筋さえ透けることなく、体重七五キロの重さをもってそこにおり、男らしく節くれ立った指に挟まれた煙草は、摂氏九〇〇度の火を赤々と熾している。煙を吐く息さえ質量をもって闇を漂う。
 いつのまにか聴覚野の片隅を占領していた乾いた音は消え、シャマルの煙を吐く息が何かの音楽のように耳の奥にしっとりと落ち着いた。
「ドクター・シャマル」
「あ?」
「いただけませんか」
 医者は止めなかった。懐からもう一本取り出し、病人の指に握らせる。マッチは先の一本が最後だったので、嫌がる医者の顔を間近に見ながら火を吸いつける。
 しかしモレッティはそれを深く吸わなかった。シャマルが匂わせるのと同じ煙の匂いをかぎながら、鼻からメロディを漏らす。シャマルは苦笑し、メロディに合わせて口ずさむ。生きた男の声の質量が心地良く、モレッティは九〇〇度の火が指先を焦がすまで、鼻歌をやめなかった。



BGM : St. James Infirmary Blues





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