ベイビー、かわいこちゃん




 ある夜、頭痛がすると言ってディーノは薬を飲んだ。部下達は気を揉んだが(気を揉みすぎて医者を五人も用意し、今度は暗殺を懸念して四人を叩き出したが)、当の本人は冷たい風に当たりすぎただけだと笑い、ドアの向こうに消える。ロマーリオだけがついてきた。ディーノは何も言わなかった。
 かつての部下が一人、死んだ。先代から仕えてきた苦労を知る男だった。歳を取って歳を取って、銃を持つ手が震えた頃にやっと引退をした。二年だけ静かな老後を過ごし、一昨日、死んだ。埋葬に、ディーノも立ち会った。
 ディーノはベッドに沈み込み、両腕で天井の明かりを遮る。ロマーリオは静かに照明を落とす。すると闇の中から小さな、尋ねる声が聞こえた。
「どうしてキャバッローネを選んだんだ?」
 闇の中で、それは小さく聞こえた。ロマーリオはすっかり慣れた足取りで闇の中を歩き、椅子に腰を下ろす。木が微かに軋む。厚くカーテンに閉ざされた闇の中で、その音もまた小さい。
 ロマーリオはディーノに向けて笑う。笑みはベルベットのような闇をわずかに揺らす。ロマーリオには、ディーノが顔を上げ、自分を見たのが解った。彼は答えた。
「ボスがいたからさ」
 衣擦れの音。ディーノがゆっくり頷き、枕に顔をうずめる気配がした。
 ディーノに出会う前から、ロマーリオはスナイパーだった。ライフルを操り、硝煙の匂いに慣れ、遠く木霊する銃声とスコープの向こうの血飛沫に慣れていた。しかしマフィアとしてこの世界に骨を埋めようと決意させたのはディーノだった。若いディーノの駿馬のような躍動と、血にも硝煙にも穢れぬ両目に芯から惚れたからだ。
「皆、そうさ」
 ロマーリオは呟く。
 皆そうだ。キャバッローネだけでなく、この世界に生きるどんな男も。

          *

 外科医の研究室は常に明るい光に満ちていた。彼らの恩師は光を遮ることを好まなかった。おかげで研究室の書物や書類は焼け放題だった。せっかく苦心して完成させたレポートが黄ばむのを防ぐためにも、学生達は研究室内を常に整頓された状態に保つことを余儀なくされた。
 その中で燦々と日の光を浴び、セピア色に褪せてゆく写真があった。壁に貼られた写真達だった。外科医が患者と一緒に撮った写真だ。その中でロングランを続ける一枚は四つ切のそれで、他がポラロイドやせいぜいキャビネサイズなのを考えると破格の扱いを受けていた。
 車椅子に腰かけて尚、背筋が真っ直ぐに伸び、視線は恐れるものがないかのように真っ直ぐとこちらを見詰めている。左の頬に黒く絡みつくものはほつれ毛ではなく草の蔓と小さな花の刺青だった。
 首席卒業を目前に控えた男がそれを見詰めていた。
「多分、町医者も難しいと思うんですよ」
 外科医のデスクの前には、この暖かい日差しの中でもニット帽を脱がない男が行く先を相談している。
「お前が学んだのは経済じゃないからな。そうだろう」
「ええ、経営なんてド素人ですからね。しかし先生の研究を継ぐだけのおつむもなく」
「嘆かわしいことだ。己の限界を口にするような学生が俺の下にいたとは」
「天才を目の当たりにしたんじゃね、ここにいる間に身の程というものを知りましたから」
 男は振り返り、まだ写真を見つめている彼の後姿を見る。外科医もまた視線を追った。
「シャマル」
 呼ばれて後姿が振り返る。
「残る気はないか」
「………」
 シャマルは恩師の名を呼び捨てに呼び、視線だけで写真を指した。
「このひとは?」
 今度は外科医が黙り込んだ。そして低く、知ってどうする、と尋ねたが、シャマルは答えなかった。
 ロマーリオは黙ってその遣り取りを眺めた。
 とうとう、降参するように外科医が溜息をついた。
「全く、今度の弟子に碌な奴はいない。なあ、オッターヴォ」
 シャマルの目がそばめられる。
「オッターヴォ、彼女がここにいたことは、彼女と私の秘密だった」
「マフィアと絡みがあったのか」
 ロマーリオは恩師を見た。またシャマルも同じような顔で恩師を見ていた。彼の目はシャマルと、シャマルの向こうの写真に据えられたまま、険しさを僅かにほどき苦々しく笑っていた。
「俺の最高の弟子が、闇の世界に沈むというのか」
「俺は彼女の許へ行く」
「お前が決めたならば仕方がない」
 この最高の弟子にばかりは甘いことを自覚するように老いた医師は顔を覆って笑った。
「さらばだ。俺はもう老いた。そして疲れた。二度と俺の前に姿を現すな」
「ありがとうよ」
 シャマルはもう一度、恩師の名を呼び捨てて部屋を出て行った。ロマーリオとモレッティは黙ってその後姿を見送った。
 ボンゴレのトライデント・シャマルの名を聞いたのは、ロマーリオが夜の世界に足を踏み入れてすぐで、当たり前のように出会ったその名前に、老いた恩師の苦笑を思い出した。果たして彼がボンゴレ八世に出会うことが出来たのか、それは知らなかったが、実に名うての殺し屋として名を馳せたシャマルには、この世界は合っていたのだろうと思った。
 かく言うロマーリオは銃火器全般を習い、筋は良かったものの、いつまでこの世界にいるのかと、命惜しさ半分に考えたものだった。ディーノに出会うにはまだ少し時間があった。

          *

 死んだ男の思い出話に花を咲かせるため、ボノとイワンと連れ立って飲みに出た。途中でマイケルまで合流した。ロマーリオはアルコールに合間に、ディーノと同じ質問を三人にぶつけた。
 三人は何を当たり前のことを、という顔で答えた。
「ボスがいたからだ」
 だよな、と笑う。ロマーリオが死んでからも、ディーノや、この若い者どもが酒の肴に話してくれるといい。今は、ロマーリオは、この世界で死ぬことも恐ろしくないのだ。
 勿論、ボスがいるからだ。





ボンゴレ八世に萌える。