アルフィーネ




 一緒に飲んでいても彼女が自分を見ないのは常のことだったし、隣の男と喋っているのを黙って聞くのもまた彼の常だった。夏が近い。話題はバカンスのことで持ちきりであり、年中殺されている男としては語り得るのは心臓と呼吸の止まった先にある世界であり、行けども行けどもローマ、ミラノ、フィレンツェ、足を伸ばしてモナコ、マイアミ、クアラルンプール、全て開ききった瞳孔の捉えた世界ばかりなので、やはりこの夜も黙って耳を傾けるよりない。
 肩を流れる髪を、白い指が時々持ち上げる。その度に、細い肩や、尖った鎖骨の幽かな陰影が自分より、彼女を挟んだ向こうの男の目に映るのだ。モレッティは酒に口をつける。今更、嫉妬もない話だが、愉快でもなく、しかし腹を立てるほどの血潮の熱さは既に遠い。
 また髪が流れる。白い指が持ち上げる。その手首を取り、手の甲にそっとキスをして返す。髪は肩を隠したまま、時々笑い声にあわせて震える。
 不意に、ビアンキが振り向いた。
「…モレッティ?」
 不信そうではなく、野から顔を出した兎を見つけたような少女のような無垢をたたえて、彼女は不思議そうにモレッティを見た。
 モレッティはバーテンに合図し、彼女の空のグラスを満たさせる。そして自分もまた口をつけ、新しい琥珀を目の前に。彼女の視線から少し顔を逸らして、ばつの悪さを隠す。
「駄目よ」
 白い手が伸びて、自分の首を掴む。一瞬、圧し折られるかと心配したが、ぐいと力を入れてその手がしたことは、伏せた顔を女の方へ向かせることだった。
「駄目よ、モレッティ」
「悪かった」
「違うわ」
 彼女は少し怒ったように言った。
 酔っているのかと尋ねようとして、モレッティは口を噤んだ。そして彼女の目を見て、一つ頷き、もう一度「悪かった」と言った。
 ビアンキはさっさと立ち上がり、店を出る。残り香の向こうに目を丸くした男がいる。モレッティはそれに構わず、カウンターに金を置き、彼女を追った。

 通りの真ん中で彼女は待っていた。モレッティは彼女の手をおしいただき、白い手の甲にもう一度キスをする。
「どうぞ、俺の部屋に」
「当然よ」
 二人で並んで歩く。夜も遅いが通りに人は絶えない。穏やかなアルコールの香りと、建物の窓窓の明かりが柔らかく二人を包む。
 不意にビアンキが笑い出した。モレッティは驚く。
「どうしたの」
「気持ちいいの」
 彼女はバックステップを踏みながらモレッティの前に立ち、手の甲を見せた。
「余韻がまだ残ってるわ」
 その手はふわりと広がり、モレッティの首を抱き締める。モレッティはよろめき、彼女の身体を抱き締めようとするが、ビアンキは踊るようにモレッティを引っ張りまわす。
「ビアンキ!」
「ねえ、モレッティ、解ってる?」
「解ってる、解ってるよ。最後まで、だ」
 そうよ、とビアンキは笑う。
 その後ビアンキを小鳥のように軽々と抱きかかえ、街一番のホテルの最上階までつれていったという話を友人の医者は信じようとしない。





相手が気付かないようなさりげないキスとやらをモレッティに実践してもらいました。